友情の証にチマチョゴリを着ました − 柳美里
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今日はこれから、金剛山歌劇団の「朝鮮舞踊の비단길(シルクロード)」を観に行きます。
四月九日から二十二日まで平壌に滞在していました。
一昨年の十月にはじめて祖国訪問したときは、高麗ホテルに泊まったのですが、今回は太陽節(故金日成主席の誕生日)を挟んだ日程だったために同時期に滞在する在日同胞がたくさんいて、同胞にはリーズナブルでアットホームな平壌ホテルが人気だということで、わたしも泊まってみることにしました。
朝鮮に家族が暮らす同胞の方々の話を聞きたい、という思いもありました。
二月三月と心身のバランスを崩し、抗鬱剤と睡眠薬が手放せない状態だったのですが、平壌では薬は飲まない、と決めていました。
春を迎え、芽吹いたばかりでまだ色が定まらない柳の枝の下を歩いて、大同江の流れに思いをゆだねれば、精神の縺れが自然にほどけるような予感がしていたのです。
到着した日の翌晩、金剛山歌劇団の李龍秀団長のお誘いを受けて、同行してくださった朝鮮新報社の朴日粉さんと四階のBARに降りました。
大同江맥주(ビール)で乾杯し、ミョンテ(明太)を裂いて食べているうちに、話が弾んで止まらなくなりました。
親友に打ち明け話をするように、芥川賞受賞直後のサイン会中止事件のことや、『8月の果て』連載打ち切りのことを話し、高校を放校処分になったあたりまで遡って、気がついたときには訪朝前の精神の危機を呻くように訴えていました。
李龍秀団長も、奥様との馴れ初めからはじまって、自分が出した結婚の四箇条(一、舅・姑・小姑を大事にしてくれ。二、友だちを大事にしてくれ。三、金銭的には苦労させる。四、仕事には口を出すな)、奥様が出した結婚の一箇条(月に一回外食に連れて行ってほしい)、娘ふたりがつづけて生まれたときにお父様に呼び出されていわれたこと、若白髪について、お父様と奥様にいわれたことなど、思わず笑ってしまうような話をつぎからつぎへと聞かせてくださいました。
金剛山歌劇団は、わたしよりも二日長く滞在するということでした。
二十二日の朝、荷造りを終えてロビーに降りると、李龍秀団長が待っていてくださいました。
団長はわたしの手を両手で握りしめて、いいました。
「日本が朝鮮人に権利を与えてくれたことなど、ただのひとつもない。どれも朝鮮人が闘って手にした権利だ。お互い、日本に帰ったら、闘おう。それと、ひとつだけいっておきたいんだけど、胃が悪いのにタバコを吸ったら命を縮める。タバコはやめなさい」
わたしは、初訪問のときに、朴日粉さんが「平壌で出逢ったひとは、生涯の友だちになる」とおっしゃったことを思い出し、涙が出そうになりました。
今日は、平壌で結んだ友情の証に、チマチョゴリを着ました。
高校無償化制度で、文部科学省が外国人学校の対象校から朝鮮学校だけ除外したことなど厳しい政治状況がつづきますが、「お互い、日本に帰ったら、闘おう」という李龍秀同志の言葉を胸に、わたしはわたしの小説を書いて、闘い抜きたいと思います。
リュウ・ミリ●作家
1968年生まれ。神奈川県出身。鎌倉市在住。
1993年、「魚の祭」で第37回岸田戯曲賞受賞。
1997年、「家族シネマ」で第116回芥川賞受賞。
2008年10月、朝鮮民主主義人民共和国を訪問。
近著に「オンエア」がある。