「応答責任」と「承認欲求」―日朝連帯運動の経験から―
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切り刻まれる私(kiimiki)
日朝連帯運動やジェンダー・セクシュアリティなど様々な社会問題を取り上げている。発信者は関西在住の女性。映画や音楽の感想(分析)も面白い。http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/
私のブログに「自己のアイデンティティのために、在日朝鮮人を利用している」とコメントされた方がいた。「在特会」の襲撃事件に対し異議を唱えた記事への否定的なコメントであったが、その言葉にずっと引っかかっていた。思い当たる節があったからだ。私には、他者から認められたいという「承認欲求」が、どこか隠れていたように思う。日朝連帯運動に、この「承認欲求」が発露されることで、一体どのような問題が生じるのだろうか。
私と日朝連帯運動
私は運動の中で、自らの政治的立場に気づかされてきた。他者の呼びかけに対する「応答責任」は、私が運動の中で中心に据えて考えてきたことであり、そのためには、この問題と自分自身にいかに向き合うかということであった。
しかし、できることといえば目前の企画をこなしていくくらいのものだった。そもそも既存の「在日朝鮮人学生団体」の運動の一環でもあったため、事務的な作業は頼りっきりになってしまっていた。一方で、「日本人」学生は、希少な存在として扱われ、表舞台に立つことが多くなっていった。つまり、用意計画された行動に依存するだけのあり様だったようにも思う。とにかく期待に応えようとしてきた自分を、全否定するつもりはない。しかし、これくらいで責任を果たした気分になりかねなかったし、それがどれだけ「主体的」であったかは、自分でも心許ない。
そんなとき、2006年の朝鮮民主主義人民共和国の弾道ミサイル報道を契機に、日本社会はさらに在日朝鮮人社会に追い打ちをかけた。そのような状況に対し、私は「日本人として」怒り憤った。そこで、「日本人主体」の学生団体を創り、「日本人」の立場性を問う実践を模索していった。といっても、「私たち」にできたことは、情宣活動など微力なものだったのに、「日本人主体」の学生団体が立ち上がっただけでも、期待も込めていろんな人に褒められてしまった。
「承認欲求」の向かう先
少しずつまわりから認められるようになると、ますます「主体性」や「自己批判」という言葉を安易に活用していくようになった。確かに、日本社会に歴然とある植民地主義的構造の中で、「日本人」という「立場性」をいったん固定化して見ざるを得ない状況があるが、「日本人」にこだわり続けてきたこと自体が、たとえばダブルの学生などそのカテゴリーだけにしっくり当てはまらないと感じる人たちを無視してきたことには全く無自覚であった。自らを本質化することのほうが楽であったし、それによって向き合った気になってしまっていた。
なぜこのような問題が生じるのか。その裏には、私自身の「承認欲求」と深く結びついていたのだ。「承認欲求」は、「他者からの呼びかけに応える」だけにとどまらず、さらに「応えたことに対する他者からの承認を求める」という行為である。こうした問題にかかわる「日本人」は、自らの「加害性」にいかに真向かえているかどうか、たいてい負い目があるのだろう。承認されたい他者に求められると自ら想像する理想的な「日本人の自画像」に近づこうとしてしまうのだ。他者に対する「応答責任」として必然的に体現されるはずの「日本人の自己批判・主体性・立場性」が、自らの行動価値を認められたいために、またそこにいることを正当化するものとして、結局のところ表面的になってしまったのではないだろうか。
このように、結果として他者からの「承認」を求めがちになるそうした主体は、次第に「応答責任」としてのものではなくなり、空虚な自分に気づき、「自己肯定」を求めて簡単に運動から離脱し、植民地主義的でナショナリズム的な主体として反動的になってしまうことがある。これが日朝連帯運動の中で発露された「承認欲求」の向かう先の危うさである。
私の中にも、そして日朝連帯運動にかかわるどんな「日本人」の中にも、「承認欲求」は存在する。「承認欲求」を満たすための運動は、非常に危うい。梶村秀樹は、「排外主義克服のための朝鮮史」という文章の中で、「自分がそれとどうかかわっているのかを含めての 「必然性」」をはっきりさせなければ、いつでも逃げられることになると言及している。他者に「承認」されようがされまいが、自らの問題として植民地主義を克服する必要を見定めていかなければならない。誰もが抱える「承認欲求」を内包しながらも、他者との関係性のあり方に目を向けながら、植民地主義克服のための運動をいかに行うかを今後の課題として考え続けていきたい。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:自分と向き合おうと思った(当初は)。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:この社会で生きていくことで生じる引き裂かれた感(当初は)。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください |