私を動かす願い
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Arisanのノート(Arisan)
本や映画、日々の雑感など幅広い問題を社会的な視点から考察する。日本の国家犯罪、在日朝鮮人問題に関する発言も多い。http://d.hatena.ne.jp/Arisan/
転機になった経験
1999年の夏、私は当時通っていた朝鮮語教室の人たちの勧めで、地元の大阪で行われた「東アジア共同ワークショップ」(当時は「日韓共同ワークショップ」)の集まりに参加した。
これは、月刊イオの9月号でも紹介されているが、北海道の朱鞠内という土地の笹薮の下に埋められたままになっている、朝鮮人など強制労働させられていた人たちの遺骨を掘り出し、とむらい、出来る限り遺族の方たちの元に返していこうという、地元の人たちによる長年の営みが元となり、在日を含む日本や韓国に住む多くの若者たちが参加して続けられてきた集まりだ。
ここで私は、多くの人たちと知り合い、友人となることが出来たのだが、後になって、その友人たちの何人かから、「初めて会った時、ずっと抑圧を受けて生きてきた人のように感じた」という風に言われた。
これはまったく思いがけない感想だったが、そう言われて振り返ってみると、子どもの頃から家族との関係もこじれたところがあったし、学校ではイジメにあったり不登校を繰り返すなど、鬱屈した気持ちを抱いて生きてきた部分があった。そういう社会生活、他人との生活に適応できないものが年をとってからも残り、仕事も長続きすることがなかった。
それと同時に、馴染めなかったがゆえに、学校なり社会なりのあり方に抵抗を感じ、不快さを募らせる、という面もあったと思う。この面は、それがあったからこそ、朝鮮語やワークショップとの出会いも可能になった、自分の芯のようなものかも知れない。
その後、遺骨発掘の作業にも何度か参加した。
このワークショップは、私にとっては大きな転機になる経験で、参加してまもなく、ブログを開設し、意見や感想を言葉にして人々に投げかけるということも始めた。ネット上での言葉の発信は、たんに自分の存在を他人に示したいという欲望の表出の面もあるが、それに留まらない「願い」が込められていると考えられる場合もあるだろう。
その「願い」は、このワークショップの経験を通じて、私の中に生まれたのである。
願いの存在
その「願い」とは、自分の命のいわば核心的な部分、人生の時間のなかで何らかの理由によって埋もれたり覆われたり、抑圧されてきたものを、発見し掘り出し回復し、本来あるべきであった場所(つまり社会)の中に、いわば蘇生させるということだ。
人はそれに突き動かされて、日々のなかで言葉を他人に差し向け、自分が生きていることの証しをこの世に残そうとするように書き続けるのだが、その「願い」は、一番深いところでは、もはや自分の声とは呼べないものを含んでいるはずだ。
言葉を発していくうえで大事なのは、この自分を越えたものでもある「願い」を、自分の言葉や行動の根底にあるものとして見つめ、保っていくことだと思う。
「願い」を断念しないことを
いま思うのは、自分がそうした「願い」の存在を自覚する(知る)ことになったのが、遺骨発掘の営みにかかわる場であったのは、偶然ではなかったのだということである。
かつて人々を非業の死に至らしめ、いまも遺骨を放置しているものと、私たちに自他の生の抑圧を強いている日常の力とは、同じではないがつながっている。
笹薮の下に眠っていた人たちの骨は、後世の私たちに働きかけて、二度とこのような苦痛を生み出すことのない世の中に変えていくこと、そのために私たち一人一人が自分の生を社会の抑圧的な仕組みから解放し、制度や日常の不条理に対して声を上げながら生き抜いていく人間になることを、静かに呼びかけていたとも考えられよう。
社会のマジョリティーとして、自分と他人の生を抑圧しながら生きている、そのあり方を変えていくこと、またそのように他人にも働きかけることは、その呼びかけに耳を傾け、「願い」に従おうとする態度なのだ。
だがその「願い」に、自分はまだよく応えられずにいる。それを断念しないことが、私が生きていることの意味をも作っていくのだと思う。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:突き詰めれば、エッセイに書いたとおりです。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:上に同じく。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください A:heuristic ways |