ことばの「けんいしゅぎ」
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やねごんの にっき(やねごん)
ブログのほとんどを漢字をつかわず「かな」で書いている。そこには深い発信者の思いがある。社会のおかしな部分を指摘し分析するその内容も鋭い。http://d.hatena.ne.jp/lever_building/
ことばの「けんいしゅぎ」
「さいきんの わかものわ ことばを しらない」という ことが よく いわれます。「にほんごの みだれ」という ことも よく してきされます。しかし、「にほんご」の せかいでわ いつも、ことばを「しらない」あるいわ「みだれている」ことを とがめられるのわ、わかい ひと、とくに わかい じょせいです。 「にほんご」についての けんい(オーソリチィ)を にぎって いるのわ、おもに ねんぱいで こうがくれきの にほんじん だんせいです。
わたしわ 10だい こうはんの わかい ひとたちと せっする きかいが あります。わたしから みて わかものが「ことばを しらない」ように みえるとしたら、それわ かのじょ・かれらが ふだん おたがい どうしで かわしている ゆたかな ことばでわ なく、わたしに あわせて ことばを えらんで いるからです。
ことばを めぐる けんいしゅぎ
ふたりの ひとが はなすとき、いっぽうが あいてに わかりやすいように はなしかたや ことばを 「あわせて あげる」という ことが よく みられます。この とき、エラクナイほうの ひとが エライ ひとに 「あゆみよる」ことを いっぽうてきに しいられる ばあいが あります。
しばしば、わかものわ ねんぱいしゃに あわせて しゃべり、せいとわ せんせいに わかるよう ことばを えらび、あきたべんを ぼごに する ひとわ 「ひょうじゅんご」を まなぶ どりょくを しいられます。もちろん、「あいてに あわせる」「あゆみよる」 ことわ、ひととの かんけいを むすぶ うえで だいじな ことでしょう。しかし、こうした ふたんが いっぽうの がわにのみ おしつけられて いるなら、そこにわ ことばを めぐる「けんいしゅぎ」が あると いえるでしょう。
じぶんの しゃべったり かいたり する ことばが「ただしい ことば」「まともな にほんご」あるいわ「ひょうじゅんご」と いっちすると しんじられる ひとほど、じしん まんまんに どうどうと かたれます。はんたいに、じぶん じしんの ことばに れっとうかんを いだかされる ひとが います。じぶんの ことばが「なまって いる」のでわ ないか、あるいわ「まちがった にほんご」を しゃべってるのでわ ないか、と。そして、ことばに ついて なにが「ただしく」「ひょうじゅん」なのかの はんだんが なされる ところにわ、がくれき・かいそう・ちいき・みんぞく・ジェンダーなどに かかわる さべつと ちから かんけいが かならず はたらいて います。
わたしわ、このように かんじを つかわずに ブログを かいて いるのですが、どくしゃから 「あたまが わるそう」「ていのう」といった コメントを もらったりも します。こういう コメントを かく ひとも、「かんじで かかないと たにんから あたまが わるい ひとと みくだされる」という あつりょくを うけて いるのでしょう。にほんごの くうかんの なかでわ、「ひょうじゅんご」や「まともな にほんご」「せんれんされた ちてきな ことば」を みに つけねば ならない という、いわば「どうか あつりょく(同化圧力)」が いたる ところに はたらいて います。
そんな なか、ことばの けんいしゅぎに よりかかって じしん まんまんで いられる マジョリティわ、「あゆみよる」という ふたんを あいてに いっぽうてきに おしつけたまま、「さいきんの わかものわ ボキャブラリーに とぼしい」とか「わかい じょせいの ことばが みだれて いる」とか、ひひょうしながら ふんぞりかえって いる わけです。
「ただしい ことば」という はっそうを すてる
しかし、このように あいての ことばに みみを かたむけ りかいしようと せずに、じぶんと おなじ ことばを しゃべる ことを あいてに いっぽうてきに ようきゅうする という ふるまいわ、わたし じしん やって きたし、いまも やって しまってるかも しれません。また、わたしが こうして「にほんご」という わくの なかで その けんいしゅぎを もんだいに しつつも、マイノリティの げんごを まなぶ どりょくを して こなかった てんでわ、いまも「あゆみよる」という ふたんを たしゃに いっぽうてきに おしつけて いると いえます。
そういった わたし じしんも ぞくしている ふびょうどうな かんけいを といなおし、おたがいの りかいの ための しごとを こうへいに ぶんたんしあう かんけいを つくって ゆくこと。わたしが ものを かいたり しゃべったり するなかで とりくみたいのわ、そういう ことです。そこに「ただしい ことば」「ひょうじゅんご」という はっそうは いりません。じぶんが はなそうと する あいてと その ことばを そんちょうする しせいを つらぬく いしさえ あればよい。わたしわ『こくごじてん』と しゃべりたいのでわ なく、いきた にんげんと はなしを したいのだから。
【註として】
わたしが かんじを つかわない りゆうわ、ほんぶんに かいた こととも かかわりますが、くわしい せつめいわ ブログの つぎの きじなどに あります。
「かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか?」http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:なんとなく。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:びょうどうな かんけいの もとで たしゃと かかわりたい という こと。そして、どんな せいやくの もとであれ わたしたちの せんたくわ じぶんの いしで なされた ことであり、つねに ほかの かのうせいが ありえたのだし、これからも そうだ という こと。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください A: パラム、ドル、ヨジャ~済州島におおいものみっつ~ 再構築 planet カラダン 3にんとも ごじしんの はっした ことば、かたりくちを とおして、ごじぶんと せいじつに むきあって おられるように みえ、ふかく そんけいすると ともに ゆうきづけられて います。 |