「過去」は現在の私たちの隣にある
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過ぎ去ろうとしない過去
日本の過去の侵略や植民地支配が今日まで清算されぬまま様々な形で現れている、その現象と根本を分析し批判している。たまにアニメに関する論考も。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/
月刊イオの読者のみなさん、こんにちは。はてなダイアリーというブログサービスで、『過ぎ去ろうとしない過去』というブログをやっている北守というものです。中の人は、大学院でドイツの政治思想を研究している日本人です。
ブログのタイトル「過ぎ去ろうとしない過去」には、由来があります。1980年代、ドイツ(当時は西ドイツ)で「歴史家論争」という論争がありました。ドイツはいわずとしれたホロコーストを行った国で、(もちろん様々な問題はあるにせよ)歴史的な責任を取ることにおいて日本が見習うべき点は多いと思っていますが、しかしそのドイツでも、ホロコーストの責任をいまだに取り続けなければいけないことについて、厭う声があります。
【「現在」にとどまり続ける「過去」】
1986年、歴史家エルンスト・ノルテはホロコーストについて、「過ぎ去ろうとしない過去」と呼びました。戦後40年。ホロコーストはもう「歴史」として、他の様々な虐殺と比べて相対化されてもいいはずなのに、なお我々ドイツ人にとって特別なものであり続けている、というわけです。
おりしも当時のコール首相が、レーガン米大統領を伴ってナチス親衛隊員も埋葬されているビットブルグ墓地に参拝しようとして問題になっていた時期です。ノルテの発言は、当時のドイツ人の一定数がホロコーストに対して抱いていた「本音」として大きく取り上げられ、多くのひとびとから批判を受けました。これが「歴史家論争」です。
哲学者ユルゲン・ハーバーマスも、ノルテの考えを痛烈に批判したうちの一人です。彼はノルテの「過ぎ去ろうとしない過去」という批判をひっくり返して、むしろ「過去」は「現在」の一部となっているのだ、と述べました。そうであるかぎり、またそうであるからこそ、ホロコーストは「現在」のわれわれの問題なのだと。
ドイツ語で「過去」はVergangenheitといいます。“行ってしまって(gangen)ここには無い(ver)”という意味です。しかし、それが行かずにここにとどまり続けているとすれば、それは「現在」になります。ドイツ語で「現在」はGegenwart。”行く(gegen)のを待つ(wart)”という意味です。ある事柄が、何らかの理由でとどまり続けているとき、それは「過去」の事柄ではなく、「現在」の属する事柄なのです。
【日本における「過ぎ去ろうとしない過去」】
日本はアジア太平洋戦争後60年以上たってもなお、侵略戦争と植民地支配について未だ責任を果たしているとはいえず、それどころか植民地主義は一部で継続してさえもいます。にも関わらず今の日本社会では、侵略も植民地も、もう「過ぎ去った」こととして考えられている。声を上げる者がいたとしてもそれを無視し、「過去」のことにこだわっても仕方がない。「現在」そして「未来」を志向するべきだ、という声が、多くの日本人たちの口から聞こえてきます。
とんでもない。日本にはまだまだ「現在」にとどまり続けている「過ぎ去ろうとしない過去」がある。「過去」ははるかかなたにあるのではなく、(私たち)日本人の隣にあり、それらと向き合い、責任を果たすことが私たちに求められている。「過ぎ去ろうとしない過去」というブログのタイトルには、そのような意味が込めてあります。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:ちょうど友人たちがブログをやり始めた時期だったので。当初はいわゆる「アニメオタク」的な記事と歴史の話半々ぐらいで書くつもりでした。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:難しいですが、日本の構造そのものを問い直すことでしか、日本にある問題、日本が引き起こしてきた問題を真に考えることはできない、ということです。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください A:「ある難民一家を支える会」 「Apes! Not Monkeys! はてな別館」 「やんばる東村 高江の現状」 |