「多数派意識」の解体を
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村野瀬玲奈の秘書課広報室
「国会議員、行政機関、マスメディアに主権者、納税者、生活者の声を届けるお手伝いをする、社員一人のサイバー政治団体、『世界愛人主義同盟』の秘書課」を看板に掲げるブログ。人権や差別、死刑、教育、労働問題から軍事、外交、原発問題までトピックは幅広い。
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日本の社会には重大問題がたくさんあります。どこの国でも多かれ少なかれそうなのかもしれませんが、日本特有の問題を一つひとつ思い起こしていくと、それが多くの分野に広がっていることに気づきます。また、重大問題なのに、それが少数の当事者の目にしか見えないために問題扱いされないこともよくあります。
たとえば、雇用や給与や社会的慣習で差別されている女性。米軍基地を押し付けられているために多くの苦痛を甘受させられている沖縄。もらっても経済振興に結びつかない補助金と引き換えに他地域が望まない原発を受け入れさせられている過疎地。今もある種の日本人や政府機関からあからさまにあるいはさりげなくその存在と尊厳を否定され続けている元日本軍「慰安婦」。例は尽きません。
【無視される「少数派」の苦境】
これらに共通するのは、その立場におかれた者たちの数が「少ない」ということ。また、その立場におかれた者たちの苦境を「多数派」が無視することが「多数派である自分たちにとってなにかと都合がよい」ということ。たとえ明確な悪意はないにしても、多数派であることによりかかって、公平な目で問題を直視することができないのです。
そのほかの例として、冤罪、つまり無実の人に罪が着せられる事件の例も思い浮かべます。すべての刑事事件から冤罪者が出るわけではないので、無実の罪を着せられる被害者は少ないといえば少ないです。しかし、冤罪事件は過去に多くあり、無実を主張しながら死刑にされた人までいます。冤罪被害者の絶対数は少なくても、不条理な結果を強いられる当人にとっては取り返しがつきません。
誰でも濡れ衣を着せられる可能性はあるのに、「その一人が刑務所に入れられたり死刑に処せられたりしたとして、そんな例は少ないのだから、そんな問題に取り組むのは面倒だ」という感覚がもし多くの人に残っているとしたら、それこそが日本の社会問題の解決を阻んでいるのです。
少数派であっても、正しい時は正しいはずです。被害を受けたのが少数の人であっても誤りは誤りとして補償と反省が必要だという意識や意思や感情が社会の中に十分な量ないと、その社会は自ら問題を解決することができないのです。日本では特に、国際社会と歴史の前で恥じることがないように公正に人権尊重思想によって社会を進歩させようとする意思や力が十分ではないように思えてなりません。
多数派であるというだけで自分が正しいと安心する意識があるのか、日本では多数派の存在そのものが進歩への強い抵抗としてはたらいているのかもしれません。でも、そんな「多数派意識」を解体したいという願いが、なぜどのようなきっかけからはわかりませんが、私の中にあります。ヒトラーを正しいと信じた人の数の多さがヒトラーを正しくしたことはなかったのですから。
誰もが少数派として不利な扱いを受ける可能性を心配しながら、多数派解体の願いを表現し続けたいと思います。たとえて言えば、多数派が「2+2=5」だと信じれば教科書に「2+2=5」と書きかねない日本社会の中に、問題を一つずつでも正そうとする意志の力を少しでも蓄えたくて。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:無名の市民である私も、日本社会を少しでも進歩させられればいいなという気持ちから、少し発言してみようと思って。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:歴史の進歩は、すべて少数派から始まった。現時点で「多数派」ではないことにひるまなくてもよい。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください A:「Afternoon Cafe」 「壊れる前に…」 「イラク・ホープ・ダイアリー」 |