「学校を守れ」、流血のたたかい~vol.4 4.24教育闘争
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1948年の4.24教育闘争から今年で65年。兵庫、大阪を中心に、占領米軍と日本政府による朝鮮学校閉鎖に反対し血を流してたたかった同胞たちの経験は、戦後、現在まで脈々と続く民族教育権擁護運動の原点となった。
閉鎖令撤回と「非常事態宣言」
1945年8月15日の祖国解放後、在日同胞たちは日本帝国主義の植民地支配下で奪われた民族の言葉を取り戻そうと、日本各地で手作りの「国語講習所」を次々と開いた。同年10月に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝聯)は民族教育事業に力を注ぎ、「講習所」を学校へと発展させる。48年4月1日時点で、朝鮮学校の数は566校にのぼった。
しかし、日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)は朝鮮学校に対する弾圧政策に舵を切る。文部省は48年1月24日、在日朝鮮人の子どもたちの日本学校就学、朝鮮学校の学校教育法による認可などを求めた通達を各都道府県知事宛に送付、従わない場合は学校を閉鎖するよう命じた。その後、3月31日の山口県を皮切りに、4月まで岡山、兵庫、大阪、東京の各都府県で学校閉鎖令が下された。