始まりのウリハッキョ編vol.05 新校舎建設に注いだ情熱~千葉朝鮮初中級学校
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来年、創立70周年を迎える千葉朝鮮初中級学校。閉鎖の憂き目にあい、「朝鮮学校、ぼろ学校」と蔑まれながらも63年に新校舎を建設し新たな門出を迎えるまでには、商工人や活動家、同胞たちの献身と情熱があった。
児童7人でスタート
同校の歴史を知るうえで貴重な資料が残っている。「千葉における民族教育事業を回顧して」(以下、「回顧」)と題された小冊子で、支部委員長や教育会会長を歴任し県下民族教育の発展に尽くした故・李泰云さんが著したものだ。以下、同書の記述をベースに千葉朝鮮初中級学校誕生までの歴史をひもとく。
1945年の祖国解放後、千葉市今井町で盧晟容さん(故人、千葉朝鮮初中級学校の第2代校長を務めた故・盧在玉さんの父)の下、児童数7人で始まった国語講習所が県内での民族教育の出発点といわれている。46年4月から在日本朝鮮人連盟(朝連)が日本各地の国語講習所を6年制の初等学院に改編する措置を講じると、同年9月13日、朝連千葉初等学院(今井町)が開設される。千葉朝鮮初中級学校はこの日を創立記念日に定めている。
今井町を含めた蘇我駅一帯は当時、五田保と呼ばれ、県内で屈指の朝鮮人集住地域だった。日立航空機の工場があったため、戦時中に強制動員された朝鮮人労働者が飯場に多く住んでいたのだ。当時、千葉初等学院に通っていた康東勲さん(78、総聯県本部顧問)によると、校舎は千葉銀行蘇我出張所だった建物で、朝連県本部が接収し事務所として使っていた。今井町の国語講習所に通っていた康さんは父親に連れられ、新しい学校で学ぶことに。そこで鉛筆をもらったのが記憶に残っているという。
その後、10月には船橋初等学院が開設され、年内に東葛、木更津、館山、横芝、茂原の各学院が門を開いた(児童数は7校合わせて386人)。しかし49年10月の学校閉鎖令によって、県内の各学校は開設から3年ほどで門を閉じることになる。