始まりのウリハッキョ編vol.09 同胞たちの悲願、朝鮮学校再開へ~埼玉朝鮮初中級学校
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解放後、埼玉県下の各地にも国語講習所が設立された。しかし「学校閉鎖令」後は、長く日本の公立小学校での民族学級や課外授業といった形態で民族教育が続けられることになる。県内に正式な朝鮮学校が創立されたのは61年のことだ。67年、現在の場所に新校舎を竣工するまでを振り返ってみよう。
埼玉での民族教育の始まり
1945年10月15日、朝連の結成は、埼玉での民族教育実施においても大きな契機となった。川口、川越、蕨、戸田、入間、本郷など各地域の朝連支部を中心に国語講習所が開かれた。
46年の春には、大宮公園の同胞花見に集まった参加者たちの中から「帰国の日までに子どもたちには朝鮮語を学ばせなくては」といった声が飛び交い、同年から大宮でも国語講習所が始まった。人の家を間借りして作られた教室で、児童33人、教員2人が学んだという。
47年、朝連川口支部においては、古い民家を借りて「第1小学校」が開校。当時学んだ朴在姫さんは「戦争中、日本の学校では朝鮮語が禁止されていたため、先生に朝鮮名で呼ばれ、朝鮮語の文字に出会い、戸惑いながら覚えていく毎日でした」と証言している(『埼玉とコリア』より)。
48年4月8日には、川越に次いで、豊岡、入間川地域に本格的な「第2小学校」が設立される。5人の教員に50人以上の子どもたちが学んだ。しかし49年10月に「朝鮮人学校閉鎖令」が下されると、直後の11月2日には県下全ての学校・講習所は強制閉鎖させられてしまう。当時、同小学校で学んだ全力さん(77、総聯埼玉県本部顧問)は、「学校でのことはあまり覚えていない。なにせ始まってすぐに『学校閉鎖令』で門を閉ざされてしまったんだから」と話す。
多くの子どもたちは日本の学校へ転校させられた。この頃、埼玉で教員をしていた許南麒さんは、民族教育への弾圧に強く抗議する「1949年11月2日」という詩を残している。以下、一部を抜粋する。《잘 가거라、/잘 가거라、/나의 작은 동지들이여、/건강하여라 부디、/건강하게 싸워주기 바란다.》(さようなら、/さようなら、/私の小さな同志たちよ、/元気で、/元気でたたかってくれ)