始まりのウリハッキョ編vol.14 師弟の共同作業から生まれたデザイン~「サンペン」マーク誕生秘話
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朝鮮学校を象徴するもののひとつに、「サンペン」の通称で知られるマークがある。かつて中・高級部の帽章(帽子につく徽章)などとして使われ、校章にもなっている。朝鮮学校に通った人や学校と関わりを持っていた人であれば、知らない人はいないほど有名なものだ。では、「サンペン」はいつ、どのようにして生まれたのだろうか―。本誌2014年8月号特集で、デザインの考案に携わった当事者の証言に基づいた記事を掲載したが、紙幅の関係で盛り込めなかった内容も含めて、今回あらためてその誕生秘話をひもといてみたい。
発祥は東京中高
「サンペン」発祥の地は、今年10月に創立70周年を迎える東京朝鮮中高級学校だ。その由来については、同校がまとめた沿革史の中で基本的な事実関係が明らかにされている。それによると、「サンペン」マークが誕生したのは1948年で、デザインを考案したのは同校の第1期生である朴文侠さん(当時16歳)と美術教員だった朴周烈さん(当時20歳)の2人となっている(当時の校名は東京朝鮮中学校)。
一昨年、生前の朴文侠さんを茨城県水戸市の自宅に訪ね、当時の話をうかがった(朴さんは昨年に他界)。
文侠さんによると、当時、同校には「サンペン」の前に別のデザインのマークが存在していた。形は四角で、中央にトラ、背景に黄色と黒の縞模様が描かれたもので、主に帽章として使われていた。教員たちは、トラは抗日ゲリラ闘争の英雄・金日成将軍を象徴したものだと説明していたという。
学内では、帽章のデザインを新しいものに変えるべきだという意見がどこからともなく持ち上がった。「従来のデザインは黄色と黒の縞模様の背景が檻のように見えるので、見ようによってはトラが檻の中にとらわれているように受け取られる、という声もあったね。デザインをめぐって教員たちの中で喧々諤々の議論になったけど、みなどうすればいいか判断しかねていた。生徒たちの中でもいろいろな意見があったけど、表立ってそれを言うことはできない雰囲気だった」(文侠さん)。
結局、学校側は48年初め、全校生徒・教員を対象に新デザインを公募することになった。
美術教員の朴周烈さんにも白羽の矢が立った。周烈さんは文侠さんのクラスの担任で、当時、多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)の学生でもあった。「史林」の雅号を持っており、名付け親は後に朝鮮大学校の学長も務めた南時雨さんだったという。
周烈さんが住んでいた板橋区常盤台の下宿には、新潟から出てきた文侠さんも住んでいた。教員と生徒という関係だったが、年齢が近く、下宿先も同じということで、2人は兄弟のように親しかったと文侠さんは振り返る。
「デザイン、君も一緒に考えてくれないか」。ある日、周烈さんが文侠さんに相談を持ちかけた。ほどなくして、2人による共同作業が始まった。