始まりのウリハッキョ編vol.15 伝統の原点に日本人指導者~広島朝鮮初中高級学校吹奏楽部
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近年目まぐるしい活躍を見せる広島朝鮮初中高級学校(広島市東区)の吹奏楽部。同校で最も歴史の古いクラブだ。楽譜も誰一人読めない中で幕を開けた創部初期から、吹奏楽部としての地位を確立した80年初期までの、知られざるクラブ活動の歴史を探る。
日本人指導者との出会い
広島朝鮮初中高級学校吹奏楽部は1960年、広島朝鮮中級学校に高級部が併設されたと同時に結成された。当時の学校の所在地は安芸郡海田町だった。
63年に吹奏楽部に入部したという金秀光さん(当時中級部3年生、現在は音楽療法士)によると、学校にあった楽器はほんのわずかで、金さんはその中の大太鼓を担当していたという。技術指導者も不在で、実際は吹奏楽をできる状態ではなかったそうだ。学校は鉄筋コンクリート校舎の建設真っ只中だった。当時、耳に入ってきた東京や大阪の朝鮮学校の吹奏楽部の活動にも鼓舞され、校舎建設基金の一部で楽器を購入した。
初めて目にする楽器に心躍らせたという金さん。「格好良くて軽い楽器は先輩たちが次々に取っていってしまって、結局、一番難しそうなテナーサックスをすることになった。何よりも金ピカの新しい楽器を自分が担当すると思うと嬉しくて嬉しくて…」。さっそく楽器を吹いてみたが、音が出ない。当時は演奏が得意な部員はおろか、楽譜を読める部員もいなかった。独学では限界があった。
そんな時、指導者を買って出てくれた1人の日本人がいた。かつて広島のテレビ放送局「RCC」の付属オーケストラで演奏していた故・小野春風さんだ。高い録音技術が備わっている今とは違い、ニュースやドラマなどすべてが生放送だった時代、各地の放送局はオーケストラやバンドを所有していたが、録音機材の急速な発展に伴い、それらの多くが解散していった。リストラされた演奏家たちによる労働争議も相次いだ。小野さんも争議に参加したうちの1人だ。当時、朝鮮学校と親交のあった労働組合に属していたことから、広島中高の依頼を受けて吹奏楽部の指導にやってきたのだ。…