特集「私の卒業物語」
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3月は卒業の季節だ。
学業に限らず、人生において、さまざまな場所を卒業する人たちがいる。
一つの区切りをつけて、新たな道を歩む人たちの人間ドラマを誌面で再現したい。
①両親の思いを噛みしめて/16年間の寮生活を卒業
呉枢玲さん(22)
今年3月、呉枢玲さんは朝鮮大学校を卒業し、16年間の民族教育を修了する。
実家がある青森県には朝鮮学校がないため、初級部・中級部は東北朝鮮初中高級学校(当時)、高級部は茨城朝鮮初中高級学校で学び、その後、朝鮮大学校文学歴史学部に進学。6歳から今まで16年間、寮生活を送った。
一番辛かった時期は、やはり初級部低学年の時。ホームシックに襲われ、泣きながらオモニに電話をかけた。「お願いだから、家から通える学校に送ってほしい―」。オモニはただ「うん、うん」と聞いていたという。
②15年間のオモニ会からの卒業/これからも変わらない「ウリハッキョのため、子どもたちのため」
李銀崇さん(46)
息子ひとり・娘ひとりを同校に通わせた8年間のうち、5年は役員を務め、最後の1年は会長として活動に力を注いできた。2016年2月の就任後、「やるならとことんやろう」という気持ちで、必ず実現させたいことを2つ掲げた。ひとつは、愛知中高の体育館にある舞台の照明・マイク設備を一新すること。「機材がもう古くて、卒業式にマイクの音が途切れたり、東海地方にある朝鮮学校の芸術競演大会の会場になった時も照明が暗かったり。せっかくの晴れ舞台なのに、と歯がゆく思っていました」。
③親から子へ、こだわり受け継ぐ/焼肉店経営からの卒業
康柄洙さん(70)
阪神電鉄の出屋敷駅。改札を出ると、すぐ右手に3階建ての朝鮮宮廷風の建物が見えてくる。焼肉・冷麺「味楽園」(株式会社テムジン、兵庫県尼崎市)だ。大きな瓦屋根はカラフルで遠くからでも目立つ。店内に入ると一転、昔ながらの焼肉店の雰囲気が漂う。全面バリアフリー、車椅子の客も楽しめるゆったりとしたテーブル配置も心地よい。創業52年、焼肉激戦区の尼崎はもちろん関西屈指の有名店、繁盛店として長きにわたって愛されている秘密の一端を垣間見たような気がした。
④心のよりどころを目指して/女性同盟神奈川県中北支部中央分会を卒業
李梅雨さん(73)、金清子さん(74)
「とにかく地元の人たちに顔を覚えてほしくて…。車を運転できたから、プネの人を乗せてあっちこっちトンポを訪ねていきましたよ」。日本学校出身の梅雨さん。朝鮮語は話せなかったが、同胞の権利や祖国の平和統一を求める大会に末っ子の長男の手を引っ張り、チョゴリを着て参加したという。「1970年、80年代は同胞社会に祖国を統一させようという勢いが溢れていて…。国会議員の先生に統一できるよう要請に行ったり、外国人登録の指紋押捺を反対するために国会前に行ったこともあった。みんなでバスに乗ってね。愛国栄誉旗の表彰を受けてみんなでお祝いしたのも思い出です」。大きな目標に向かって末端まで同胞社会が一つになった時代だ。
⑤インディー魂は永遠に/李珩皓さん(リング名:金村キンタロー、46)
生涯に骨折した回数が443回という、イーブル・クニーブルに憧れてスタントマンになりたかった少年が、2016年12月、26年のプロレスラー人生を卒業した。
体を切り刻みながら挑戦を続けてきたプロレス人生だった。
●「卒業」後も書き続けたい/40年の記者生活を振り返り
朴日粉(朝鮮新報記者)
長い記者生活の卒業を1年後に控えているとはいえ、その後もたぶん文筆生活を送るのではという予感がある。約40年間、来る日も来る日も締め切り稼業に明け暮れたせいか、締め切りのない環境に身をおきたいという密かな願望はあるが…。宮仕えにピリオドを打った後は、これまで不義理をしてきた友人たちを訪ねたいし、家庭にもそろそろ足場を築かないとヤバイんじゃない、という自覚も少しはある。しかし、何よりこれまで叱咤激励を惜しまないでくれた読者たちにまず、恩返しをしなければと思う。
振り返れば、私の記者としてのスタートは無(む)からの出発だった。日本の学校を出て朝鮮新報社(配属先は朝鮮時報)に飛び込んだ時は、ウリマル(朝鮮語)も知らず、在日同胞社会も知らなかった。幸い、職場には、博学多才の先輩たちがキラ星の如くいて、資料室には各分野の貴重な書籍や資料が揃っていた。私にとっては仕事場が飽きない「学び舎」であった。