祖国訪問の夢掲げ、優勝へ/始まりのウリハッキョ編vol.41 コマチュックで埼玉3連覇
広告
「在日朝鮮初級学校中央サッカー大会」が今年で40回目を迎えた。「コマチュック(꼬마축구)」(ちびっこサッカー)の愛称で親しまれる、歴史ある大会で唯一破られていない記録がある。埼玉朝鮮初中級学校の大会3連覇だ。第7回(1985年)から9回(87年)大会にかけて3連覇を果たした埼玉初級にスポットを当てた。
3年生でCチーム結成
1979年の第1回大会を皮切りに始まった、「在日朝鮮初級学校中央サッカー大会」(主催=在日本朝鮮蹴球協会)は、朝鮮学校初級部の全国大会として毎年開かれている。埼玉初級は第1回大会から出場し、大会ごとに「優勝候補」として挙げられていたが、草創期は西日本の学校の強さが際立ち、優勝には手が届かなかった。
第1回大会から同校の監督として指揮を執り、同校を3連覇に導いた黄雲海さん(64、東京朝高サッカー部の監督も歴任)は当時をこう振り返った。「優勝する自信は毎年あったがなかなかできなかった。いつでも優勝できるチームを作るには、低学年からサッカーを経験させなければならない」(黄さん)。こうした考えから黄監督は、82年に埼玉初級でCチームとして3年生からサッカーを教え始めた。
85年6月の第7回大会は、82年から始まったCチーム体制の児童らが、6年生になり迎えた初めての大会だっただけに、優勝への期待は一段と大きかった。Cチーム1期生であり、当時キャプテンだった河皓容さん(45)は、「前年に準決勝で北大阪に負けて、その北大阪が大会で優勝して悔しい思いをした。4年生のときに、大会優勝チームの祖国訪問が始まり、それを間近で見ていたから、なんとしてでも優勝してウリナラ(朝鮮)に行くんだという気持ちだった」と当時の心境を振り返った。
当時、埼玉初級サッカー部は「優勝してウリナラへ行こう」をスローガンに、中央大会の優勝を最大の目標に掲げて練習を積み重ねていた。「大会が近づいてくると、夜遅くまで練習するんです。昔はナイター設備がなかったので、黄監督が自身の車にライトをつけてそのなかで練習をしていました」(河さん)。
迎えた第7回大会は、日本各地の地方予選を勝ち抜いた36チーム、600人を超える選手たちが一堂に会した。当時では稀なパスサッカーを披露し、ディフェンスでもオフサイドトラップを駆使した、現代的なサッカーでセンセーションを巻き起こした埼玉は、リーグ戦を難なく突破し準決勝まで駒を進めた。埼玉、宝塚、西播、北大阪の「1東3西」の顔ぶれとなった準決勝で、埼玉は宝塚と対戦、2―1で勝利を収め、決勝進出を果たした。
決勝の相手は、前年度優勝校の北大阪を4―1で破った第1回大会王者・西播。当時、「東の埼玉、西の西播」といわれており、5年ぶりの東西対決は注目を集めた。試合は前半4分に得点した埼玉がこの決勝点を守りきり、1―0で念願の初優勝を果たした。「とにかくウリナラに行けるということが嬉しかった」と河さんは振り返る。念願の初優勝と祖国訪問―。祖国訪問では金日成競技場で行われた、朝鮮の選手たちとの試合が忘れられないと河さんはいう。「競技場が平壌市民、学生の大観衆で埋まり、大歓声のもとでサッカーする。ウリナラではすべてが感動的だった。今の自分を自分たらしめる、大きなきっかけとなった訪問でした」(河さん)。