手作りの教材から体系的な教科書へ/始まりのウリハッキョ編vol.42 解放後の国語教科書(前編)
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1945年の祖国解放後まもなく、日本各地で在日朝鮮人による国語講習所が建てられた。トンネの同胞、子どもたちを集め、急ごしらえの教員が手作りの教材で朝鮮語を教える…。その後、教材づくりは組織的・体系的に発展し、今日まで変遷を経てきた。さまざまな科目の中から、まずは「国語(朝鮮語)」教科書の歴史を振り返ってみたい。
同胞たちに母国の文字を
「もともと学校を建てるためではなく、文字を教えるために生まれたのが国語講習所。同胞たちによる〝문맹퇴치운동(直訳は〝文盲退治運動〟、非識字者をなくすための取り組みのこと)〟です。解放当時、朝鮮語を聞いて理解することはできても、文字を書ける人となると、ほとんどいなかった」。朝鮮大学校文学歴史学部(以前は文学部)で長年、朝鮮語を教えてきた朴宰秀さん(71)はそう話す。
祖国解放後、在日朝鮮人たちにとって喫緊の課題は同胞、主に子どもたちに対する民族教育だった。日本各地に簡素な国語講習所が数多く開設され、大人も集まり朝鮮語を学んだ。しかし校舎の確保すら難しい時代。もちろん教材はなく、朝鮮語の分かる一部の同胞たちが教壇に立ち、基礎的な言葉を教えた。
最も早い国語講習所は、解放直後の8月末に東京都新宿区で開設された「戸塚ハングル学院」とされており、李珍珪(元・総聯中央第一副議長、朝鮮大学校学長)が教鞭を執った。李はガリ版刷の『한글교본(ハングル教本)』を自ら作成し、それを教材にして朝鮮語を教えたという。在日朝鮮人による一から手づくりの教材だ。
「講師は李珍珪氏と留学生の何人かがいたようだ。初めは李珍珪氏がやっていたが、こどもが中心となりはじめてからは講習を受けた大学生たちに任せて、朝連中央にいって教材発行の仕事を主にしました」(李殷直さん〔1917年生まれ、初期の「初等教材編纂委員会」に所属、地理科目を担当〕の証言。金徳龍『朝鮮学校の戦後史1945―1972』より)
45年10月15日に結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)はまず、同胞たちが切実に求めていた朝鮮語教材の普及に注力。人材を集めながら応急的に編纂と印刷を進め、46年2月の朝連第2次全体大会までの4ヵ月の間に『초등한글교본(初等ハングル教本)』『교원용 어린이한글교본(教員用 子どもハングル教本)』『어린이한글교본(子どもハングル教本)』『한글마춤법(ハングル綴り字法 ※原文ママ)』『한글말본(ハングル言葉本)』の5種類の朝鮮語教材を出版した。