民族教育の基礎 逆境でも出版続け/始まりのウリハッキョ編vol.43 解放後の国語教科書(後編)
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前回、朝鮮学校で初めて作られた国語(朝鮮語)教科書について紹介した。本号ではそれに続き、1940年代後半から総聯結成以降の編纂過程をまとめる。
試練の時期を経て
1947年11月に開かれた朝連第4回全体大会では、「近畿地方では編纂委員会による教科書を使用していない朝鮮学校が一部ある」などの指摘がなされた。教科書の不足である。これに対し、朝連では教育内容の質的、量的な均衡の保持に務めるとの立場が明らかにされた。
しかし、48年の頭から49年末までは、日本政府やGHQによる在日朝鮮人と民族教育への弾圧が熾烈を極めた時期である。日本政府による攻撃や妨害によって、朝連は引き続き出版の困難を強いられた。そのような状況のなか、「学校閉鎖令」に反対する運動が組織と民間をあげて繰り広げられた一方で、朝連は民族教育を内側から守るための教科書編纂にも一層の力を入れた。
朝連は、用紙不足や日本政府からの妨害に対策をとりながら、46年4月から48年4月までの2年間に約90種類、100万部以上に及ぶ各科目ごとの教科書を編纂・出版した。国語教科書では、学年ごとの『초등국어(初等国語)』が編纂・出版された。
49年にも、初級部部門では高学年用の『초등국어(初等国語)』ほか、1学年前期用の『어린이한글독본(こどもハングル読本)』が編纂・出版された。同年9月の朝連強制解散によって在日朝鮮人運動は深刻な打撃を受けたが、苦境の中でも地域でさまざまに続けられた民族教育の歩みに合わせて、教科書作成も分散的ではあるが続けられた。50年4月には『우리 공부(ウリ勉強)』という朝鮮語の教科書が編纂・出版されている。
朝連強制解散後、在日朝鮮人の民族教育事業は51年1月9日に結成された在日本朝鮮統一民主戦線によって展開されるが、総聯が結成されるまで教科書の編纂と出版はほとんど行われなかった。