金太一少年は、なぜ殺されたのか/始まりのウリハッキョ編vol.44 4・24教育闘争(上)
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1945年の祖国解放後、在日朝鮮人はすさまじい勢いで朝鮮語を教える国語講習所を日本各地に建て、子どもたちへの民族教育を施していった。
しかし、米占領軍と日本政府は48年1月に「朝鮮人学校閉鎖令」を出して朝鮮学校への大弾圧を加え、大阪では16歳の少年が警官に銃殺される惨劇が起きた。
朝鮮学校を敵視した米占領軍
1945年8月、第2次世界大戦で敗戦した日本を占領したGHQ/SCAP(=連合国軍最高司令官総司令部)が目的としたことのひとつは、「ポツダム宣言の履行=朝鮮人の奴隷状態からの解放」であった。しかし、米占領軍は日本を非軍事化する政策を捨て、共産主義から西側陣営を守る極東軍事基地化政策へと転換する。米占領軍は47年から在日本朝鮮人連盟の活動の中心にあった民族教育活動を規制、弾圧する姿勢を強めていく。
米占領軍の指令を受け、日本政府が朝鮮学校への弾圧の意図を明示した最初の文書が、48年1月24日に出された学校教育局長通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」だ。通達は、朝鮮人に日本人と同じ日本学校への就学義務を課すと同時に、朝鮮学校の「各種学校認可は認められない」と釘を刺している。この通達は各都道府県に回され、日本学校の校舎を借りていた朝鮮学校にその明け渡しを求め、各朝鮮学校に私立校認可の申請を求めた。在日朝鮮人は通達への抗議を続けるが、新学期が迫るなか一部の都道府県は閉鎖令を発し始める。
大阪では軍政部が他地域よりも早い47年8月ごろから朝鮮学校への調査を続けていた。そして48年4月12日、60余校の学校のうち、日本側から校舎を借りていた19校の朝鮮学校に対し、学校教育法第13条に基づき、4月15日付けで閉鎖する旨の「勧告書」を発送。
翌13日には朝鮮人教育対策委員会側の代表を呼びつけ、閉鎖勧告を直接通告し、残りの学校に私立学校としての認可手続きをとることを督促した。
これに対し16日、対策委代表は府庁に出向き閉鎖命令の撤回を求めたが、府当局はこれを拒否。府当局は21日に対策委代表を再度呼び出し、警告を発した。この日を機に朝鮮人側は一大交渉と抗議を繰り広げていく。
4万人の群衆が府庁前に
23日、大阪府庁前では朝鮮人教育対策委員会主催の「不当弾圧反対大会」が開かれ、同胞1万5000人が庁舎を取り巻いた。朝鮮人代表は大塚副知事と会談し、文部省の指令を実行しないよう抗議したが、鈴木栄二大阪市警察局長は退去命令を発し府庁内に入った朝鮮人を解散させた。この時、100人近くが負傷し179人が検束された。同胞たちは翌24日にも朝鮮人を釈放せよと、府庁と南署と東署に集まったが、代表に加えて参加者まで検束された。
26日、閉鎖令撤回を求めて府庁前に集まった同胞たちと支援する日本人の数は、4万人に膨れあがった。5人の代表が赤間文三県知事と面会したが、知事は代表たちに「閉鎖令は撤回できない」と突っぱねた。すでに4月24日の夜に神戸では米占領軍が「非常事態宣言」を出していた。ついに当局は実力行使に出る。米占領軍第一軍団スウィング少将の指令に基づき鈴木警察局長は、「代表者は1分以内に退出し、群集は5分以内に解散せよ」と命令。指導者たちが静粛に解散するよう注意し、3分の2位の参加者が解散し終わったとき、警官が消防車で群集に向けて放水し、威嚇射撃を行った。
「…肩に手をのせればふりかえったであろうほど身近にいた一人の少年がドォッとばかりにうちたおれた。…かれの顔は血でそまり、なかばひらいたまなこは、かれを射った警察官のほうをむいていた。頭部はおおきくふくれあがり、痛々しかった。…わたしの手は血にまみれた。死んだのだ、と気づいてはじめてわたしは大声で人びとをよんだ。眼を血走らせた数人がかけつけ、かれをかかえて『殺された! 殺された!』とさけびながら走った。…憎しみの涙がとめどなく両の頬をつたって落ちる。かつて父や母がわたしたちがはずかしめられ、さげすまれた悲憤の歴史を拒否した一人の少年は殺されたのだ」(「少年の死―阪神教育事件の思い出」白佑勝、「新しい朝鮮」第4号、1955年2月)
その日の金太一少年
16歳の少年・金太一は、後頭部からの亡管銃創で26日の夜11時40分に死亡した。警官が放った銃弾は20発以上。5000人の警官が群衆に銃を向ける光景は明らかに特定の民族集団に向けた殺人行為だった。
朝鮮人参加者に対する火器使用を許可したのはスィングで、かれの指令を大阪軍政部長クレーグ大佐が鈴木局長に伝達し、鈴木が拳銃の発射を命じた。鈴木は自伝「総監落第記」(1952年)で、朝鮮学校弾圧に抗した朝鮮人の闘いを「騒擾事件(騒擾:騒ぎを起こし秩序を乱す)」だとし、暴徒化した朝鮮人を弾圧するために警察が奮起したと自慢げに書いている。「治安のガン、朝連」の見出しには、朝鮮人への底知れぬ蔑視感がにじむ。
金少年亡き後、「解放新聞」の呉記者が遺族を訪ねたときの様子が、同紙の1948年6月15日付けに載っている。
…布施市自由市場の片隅にあるバラック小屋で、祖父、母親、弟や妹たちと会った席で母親は言った。「あの子はかわいそうだった。6歳の時に父親を亡くし、勉強もろくにできなかった。…学校は小学校4年の時にやめ、その日から7人の家族を食べさせるために工場に働きに行ったり、タバコ売りに行ったりで早朝から夜まで死に物狂いで働きました」
「…殺された日の朝、今日は人民大会に行くのかと聞くと、『行かない』と母親を安心させておいては、友だち同士では『悪い日本人が僕らの学校をつぶそうとしているから、今日は人民大会で誰が死のうが、やってみよう』と言いながら出かけました」
米占領軍が朝鮮人への殺意を肯定していたことを示す資料がある。4月26日午前、米第8軍司令官・アイケルバーガーは兵庫県知事による学校閉鎖措置の撤回(4月24日)を事態の急転悪化ととらえ、急きょ横浜から阪神地域に乗り込んだ。現地での会議の場でアイケルバーガーは、「警官、群衆の両者に死傷者が出たという証拠がない」ことを例に挙げ、日本の警察が事態の対応に決定的な努力をしていないことに不満を述べている。
在日朝鮮人史を研究する鄭祐宗さんは、「アイケルバーガーは戦場の論理で大阪府庁前での弾圧を意味づけていました。彼は日本の警察官が自らの命令に忠実であるか、弾圧のために人を射殺する度胸があるのかを試したのです。その実験は、数多くの日本人の社会運動ではなく、朝鮮人運動に向けられたのです」と語る。(文・張慧純)
【参考資料】
「在日朝鮮人民族教育擁護闘争資料集Ⅰ、Ⅱ」(明石書店)
「ドキュメント 在日本朝鮮人連盟 1945-1949」
(呉圭祥、岩波書店)
「『4・24教育闘争』の構造的理解のために(下)」(鄭祐宗、「朝鮮新報」2018年4月27日付)
「一九四八年朝鮮人学校閉鎖令の資料批判」(鄭祐宗、「人権と生活」vol.47、2018年12月)