不屈の精神を生んだ 4・24/始まりのウリハッキョ編vol.45 4・24教育闘争(下)
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朝鮮学校閉鎖を命じた「1・24通牒」は、朝鮮語による自主的な教育を認めないという日本政府のあからさまな弾圧であり、戦前に続く植民地主義の継続を意味した。通牒に反対する4・24教育闘争には、100万3000人が参加し、「民族教育=子どもたちの未来」を守る精神と連帯を生んだ。同胞たちは学校の再建に立ちあがる。
朝鮮学校弾圧の原型
この闘いでの犠牲者は2人、逮捕者は3076人に及んだ。軍事裁判にかけられ、本国に送還された同胞もいた。
教育史家・小沢有作は、戦後初の朝鮮人学校閉鎖の試みの中に、「日本政府の民族教育抑圧の政策原型が内包されていたことに注目する」として、3つの特徴をあげている。
第一に政府が民族教育の問題を治安問題としてとらえ、
第二に反日の名目で朝鮮人学校を抑圧しこれを閉鎖、そのための手段として日本の教育法令の適用を強行する、
第三に在日朝鮮人青少年を日本人学校に就学させて同化教育を施し、民族的自覚を抜きさる―。70年来変わらない手法だ。
在日本朝鮮人連盟(朝連)は、「1・24通牒」が出た後、第13回中央委員会の場で通牒に対する基本的な立場を表明、朝鮮学校の自主性を認め、教育内容に干渉することの不当性について明らかにした。
3月1日、各地方で開催された「三・一節二九周年記念大会」では、民族教育の自主性を確保するというスローガンを前面に掲げ、3月6日には、朝鮮人教育は朝鮮人の自主性にゆだねるべきだとする6項目の決議文を森戸辰男文部大臣に提出し、回答を求めたが拒否されている。
占領期唯一の「非常事態宣言」が出されるなど、神戸、大阪、東京など各地方で民族教育を守るたたかいが繰り広げられている時にも、中央レベルでは盛んな活動が展開された。朝連は、GHQ民間情報教育局、対日理事会各国代表などを訪問する一方で、文部省当局との折衝を何度も重ねた。
朝連中央常任委員会は「4・24」後の27日、第120回会議を開き神戸事件調査団派遣を決定、調査団の身分保障証明書などの準備を行った。また27日には、首相官邸を訪問し、首相に面会を求めたが、首相不在のため有田官房次官に面会、4月22日に提出した6項目の要求条件に対する回答を得た。
政府の回答書では、
①小中において授業言語を朝鮮語とすることは認められない、
②教科書は検定教科書または文部大臣が検定もしくは認可したものを使用する、
③学校の経営管理は財団法人の理事が行うべき、
④日本語の正課は当然、
⑤朝鮮人学校に対する閉鎖命令は撤廃できない、⑥朝鮮人学校も教育基本法、学校教育法などの法令に従わねばならないという内容だった(26日付け内閣官房長官名)。
日本政府が27日の閣議において発表した「政府声明」に、加害者と被害者とを転倒させる高圧的な姿勢が見て取れるので紹介したい。
「朝鮮人学校問題に端を発し、各地に紛争が起り殊に神戸においては遂に第八軍の出動をみるに至る暴行事件の発生をみたことは甚だ遺憾に堪えない。…日本に在住する朝鮮人は日本の法令に従う義務を有するものであることを此際重ねて明かにする。
政府は日本人たると朝鮮人たるとを問わず、法と秩序の順守を否定するものに対しては断乎たる処置を執る方針であり、全国民また之を支持するものであることを確信する」。
政府は朝鮮学校弾圧に全国民が従うよう同調圧力をかけた。
5・5覚書
民族教育を守る運動の高まりと、それを強権的に弾圧していった当局との事態の収拾のための実質的な交渉は、4月27日、30日、5月3日の三次にわたって行われた。そして5月3日に双方は合意をみ、覚書に仮調印する(正式調印は5月5日)。
朝鮮人教育対策委員会と文部省との間で行われた交渉の過程で、①朝鮮人の教育は教育基本法及び学校教育法に従うこと、②朝鮮人学校は、私立学校として自主性が認められる範囲で、朝鮮人独自の教育を行うことを前提に、私立学校の申請をする―という合意点が確認された。
私立学校として自主性が認められる範囲内とは、選択教科、自由研究及び課外時間に朝鮮語で朝鮮語、朝鮮の歴史、文学、文化等朝鮮人独自の教育を行うことができる。ただし、教科書については、GHQの許可を受けたものを使用し、放課後または休日に朝鮮語等の教育を行うことを目的として設置された各種学校で教育を行ってもかまわない、というものだった。
日本政府は3日までこの条件を受け入れなければ、東京は4日には非常事態に突入し、朝鮮学校をすべて実力で封印しようとした。事態は閉鎖直前まで来ていた。覚書は合意を見たというより、お互いの妥協点を探りながらのグレーゾーンを残した調印だった。覚書に基づき大阪では、今もある「民族学級」が生まれた。
青空学校、認可取得
1948年4月に534校、5万7204人の児童を擁した朝鮮人小学校は、「4・24」を経て49年7月には293校、3万6890人に減っている(※1)。このように、多くの朝鮮人の子どもたちが同化教育の場に投げ込まれた。
大弾圧を受けるも、各地の同胞たちは子どもたちの未来のため、民族教育の再建に心血を注いだ。兵庫における4・24教育闘争を記した本「4・24阪神教育闘争 民族教育を守った人々の記録」には、当時の情景が次のように記されている。
「五月の中ごろ、まず青空教室がはじまった。須磨まで黒板をかついでいって、浜辺で勉強したり、ときには高取山に登って歌を習い、二葉町のふとんやさんの二階の一室で、二、三十人の児童たちがだんごになって勉強を続けた。県当局が、学校の設置認可を取らないと朝鮮学校を学校として認めないというので、ねばり強い交渉の結果、西神戸の場合、1948年12月に正式に学校の設置認可(財団法人)を取った」
4・24教育闘争の一応の落着から49年9月の朝連解散まで「一年余の時期は本質的には四・二四以前とかわりない学校生活を楽しむことが出来た」(「民族の子―朝鮮人学校問題」東京都立朝鮮学校教職員組合情報宣伝部)といわれるが、朝連は教育内容を充実させるために努力し、他方では「覚書」を具体化させるために奔走した。
当時の朝連の教育活動を見ると、教育費獲得闘争、学校施設と教育器具充実のための活動、学校規定の厳正実施と教員の質的向上のための活動、六・三制完全実施の国費負担と教育費追加増額闘争、反民主的教育政策排撃と民族教育の確立などを目指し一定の成果をあげている。
「4・24」後、朝連は4月24日を記念日とすることを決議した。また、同胞社会では、検束者釈放を求める署名運動、「四・二四の歌」の普及、「朴柱範賞」「金太一賞」を制定するなど、多様な形態で教育闘争の精神を生かそうとした。
「…兵庫、大阪だけでも4億8000万円の損失を見ながらも闘った教育闘争が、私たちの正当な主張がいまだ貫徹されていない今日…いかにこの日を記念するかの問題ではなく、いかに闘い、この日をむかえ、いかにこの日を勝利の記念日として戦取するかにある」(元容徳朝連中総文教部長、解放新聞1948年8月15日付)。権力の大々的な弾圧に屈しなかった「4・24」の闘いはまだ道半ばだ。(文・張慧純)
※1「朝鮮学校の戦後史 1945―1972」(金徳龍、社会評論社)から引用
【参考資料】
「在日朝鮮人教育論 歴史篇」(小沢有作、亜紀書房)
「4・24阪神教育闘争」(「4・24を記録する会」編、ブレーンセンター)
「ドキュメント 在日朝鮮人連盟 1945-49」(呉圭祥、岩波書店)
「『4・24教育闘争』の構造的理解のために(中)」(鄭祐宗、『朝鮮新報』2018年4月25日付)