始まりのウリハッキョ編 民族教育史上初 鉄筋校舎にかけた1世の思い vol.48 東京第1の鉄筋校舎建設
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60年前の1959年1月15日、東京朝鮮第1初中級学校(当時は、初級学校)は、日本各地の朝鮮学校に先駆け、民族教育史上初めて鉄筋コンクリート校舎を建てた。鉄筋の校舎はいかにして生まれたのか。
●予算2000万円、同胞たちのカンパで
東京第1初中(東京都荒川区)の出発点となったのは、祖国解放後の1945年12月15日に、在日本朝鮮人連盟荒川事務所に設立された「国語講習所」である。その後、46年に「朝連荒川初等学院」へと改称し、47年5月27日には、現在の東京第1初中が位置する東京都荒川区に木造校舎を建設。52、54、55年に校舎増築工事(木造)を終え、同年「東京朝鮮第1初級学校」に改称する。
当時、日本各地の26の朝鮮学校で55~58年の間に木造校舎、寄宿舎、講堂などの建設が行われていたが、その大半が木造だった。また当時、高揚する祖国への帰国運動を背景に、民族教育を希望する同胞が増え各学校の児童生徒数が増加。このような状況の中で、校舎が手狭となり、同胞たちの間では「より長い期間、子どもたちが学べる朝鮮学校」というニーズが高まっていった。また、耐久性面で木造より勝る鉄筋コンクリートによる建築のニーズも生まれていった。
そして57年4月、朝鮮から民族教育の発展のために第1次教育援助費が贈られたことに鼓舞され、東京第1初級の関係者、保護者たちは、同年の7月19日、「東京第1初級学校校舎改築決起大会」を開き、校舎新築を決起した(「朝鮮民報」1957年7月25日付)。大会には、同校で学ぶ児童たちにより良い学びの空間を提供しようと、200人あまりの同胞たちが集まったという。
大会では学校理事会から「校舎改築事業の成功を目指して」との報告がなされ、現存する4階建て木造本校舎に加えて、新たに12の教室を備えた3階建ての鉄筋コンクリート校舎を建設することが明らかにされた。鉄筋コンクリート校舎の建設は、民族教育史上初となる試みであった。
同校理事会は、校舎の建築総予算を2000万円に設定。校舎改築代表委員であるリャン・スンホ、キム・ヨソプ、リ・ジュンチュ、リ・オダル、キン・ビョンリュル氏を含めた人士たちが40~100万円単位で寄付することを快諾したとの記録を残している。そして総予算の半額、1000万円を地域同胞たちによるカンパで調達することが呼びかけられた。学校周辺の同胞居住地域である荒川区で400万、台東区で300万円のカンパを募ることが決められ、保護者を中心に「1日10円運動」が展開された(以上、「朝鮮民報」7月25日付より)。なお、当時の2000万円を現在の価値に換算すると約1億1600万円に値する(※1)。
同胞たちが力を結集し
本格的な工事が始まったのは58年2月のことだった。校舎改築当時、同校初級部5年生だった梁明圓さん(72)は、「近所の日本学校に通う子どもたちに『朝鮮学校ぼろ学校』とバカにされていた。木造校舎で過ごす冬は寒くて寒くて・・・。みんなでおしくらまんじゅうをしながら暖をとっていたよ」と当時を振り返りながら、「鉄筋校舎の建設が決まって嬉しかったね。クラスでソンセンニム(先生)が『登下校中に釘があれば拾ってきなさい』とよく言っていた。拾ってきた釘の数を競ったり、楽しかったよ」と回想する。
「業者だけでなく、地域の同胞たちが総出で現場で建設を手伝っていたね。オルシン(高齢者)や商工人たちが本当に教育熱心だった」と話す梁さん。夏場は保護者、地域の同胞たちが汗を流しながら鉄材を運び、オモニたちが休憩用の水分やご飯を準備していた光景をよく目にしていたという。
同胞たちの情熱は熱いものがあったが、新校舎の建設は決して平坦な道のりではなかった。途中、請負業者が行方をくらまし、資金難にも直面した。長年の間、東京第1初中の教育会で勤めた玉正一さん(71)は、「当時は総聯、民団関係なく、子どもをウリハッキョ(朝鮮学校)に通わせようという認識の下、資金を出し合い、力を合わせた」と話す。
そして59年1月15日、朝鮮学校では初めてとなる、鉄筋コンクリート校舎が完工した。敷地面積は334坪を誇り、12の教室と付属施設を備えた。その他にも、運動場のアスファルト工事、4階建て木造校舎の修理、水泳場の修理などが行われ、予算は当初の設定額2000万円を超える、2700万円の大規模なものとなった。建設、校内の修理には4680人が携わったとされている(「朝鮮民報」1月20日付)。
同日、「新校舎落成祝賀式典」が同校で行われた。記念式典のようすを報じた「朝鮮民報」(1月20日付)は、新校舎を「都内の官公立学校はもちろん、日本の私立小学校を含めて、ここまで近代式で立派な校舎はなかなか目にかかることはできない」と謳っている。
「雄大な校舎を背景に、運動場は児童、保護者、地域同胞で埋め尽くされてお祭り状態だった」と記念式典を振り返る梁さん。記念式典では、児童たちや「朝鮮中央芸術団」(金剛山歌劇団の前身)による芸術公演が披露されたという。「朝鮮学校に通う子どもたちのために同胞たちがここまでやってくれるのかと、感激で胸がいっぱいになった」(梁さん)。
東京第1初級は新校舎落成とともに、同年4月に中級部を併設、現在の「東京朝鮮第1初中級学校」に改称した。前述の梁さんは中級部1期生、玉さんは3期生だ。
以降、鉄筋校舎が主流に
同校の鉄筋校舎の建設後、同年6月に朝鮮大学校(東京都小平市)の4階建て学舎が建設された。
1960年代には初級部1000人、中級部500人と50年代に比べて児童生徒数が増加の一途をたどった東京第1では、61年9月に鉄筋4階建ての校舎を新たに建設。3、4階建ての二つの鉄筋校舎が並び建った。また日本各地の朝鮮学校では、58年度から68年度の11年の間に急増した児童生徒数に対応し、毎月平均1・3校という驚くべきペースで朝鮮学校の校舎などが新・改築されていく。その数は11年間で、151校に及び、木造建てが70、鉄筋建て81と鉄筋建てが木造を上回った。東京第1の鉄筋校舎建設が皮切りとなり、各地の朝鮮学校で鉄筋建設が主流となっていったことが見てとれる。68年以降の朝鮮学校は、すべて鉄筋により新・増築されている。
梁さん、玉さんが口をそろえて話すのは、当時、新校舎建設に奔走した同胞たちの姿だ。梁さんは、「1世のオルシンたちは学校で学ぶことすらできなかった。1世の民族教育への熱い思いのおかげで、素晴らしい校舎で学べた」と話す。
「1世の意志は、92年の校舎改築、運動場の人工芝化(2006年、日本各地の朝鮮初中級学校では初)、2013年の新校舎建設と、後輩たちに脈々と引き継がれている。民族教育を取り巻く環境が厳しい今だからこそ、1世が築き上げたものを見つめなおすことが大切だ」(梁さん)
【参考】台東同胞沿革史編集発行委員会『台東』(朝鮮新報社、2007)/「朝鮮民報」、1957年7月25日付、1959年1月20日付/金徳龍著『朝鮮学校の戦後史 1945-1972』(社会評論社、2002)/※1:2018年消費者物価指数(101.7)÷1957年消費者物価指数(17.5)=約5.8倍。これに当時の予算2000万円をかけると約1億1600万円となる。(計算方法は日本銀行HPを参照)