始まりのウリハッキョ編 vol.49 朝鮮幼稚園(上) 〝幼児にも民族教育”、60年代から続々と
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1948~49年、日本政府とGHQによる朝鮮学校弾圧は熾烈を極めたが、「わが子に民族教育を」との思いまでは消せなかった。1950年代に生まれた朝鮮幼稚園は、働く母親のニーズ、増え続ける生徒数、祖国への帰国熱という、同胞社会の熱量に押されながら、60、70年代にその数を急速に増やしていった。
●〝生活のため〟
神奈川県横浜市の鶴見朝鮮幼稚園は、1949年10月19日に日本当局の朝鮮学校閉鎖令が下された後、民族教育の命脈をつなぐため、日本の小学校の公立分校として運営されていた鶴見朝鮮学校(横浜市立下野谷小学校小野分校)の付属幼稚園として53年4月に設立された。発足当初は園児が48人、教員1人だった。当時、学校の裏の朝鮮部落には相当数の同胞が住んでいたという。厳しい生活苦の中で集められた資金と同胞自身の労力で、学校の片隅に建てられた「バラック保育室」は20畳。鶴見幼稚園で初の教員となった陳孝宣さん(当時21歳)の回顧を紹介する。
「当時…ほとんどの同胞たちが『ニコヨン(日雇い労働者)』で…そのニコヨンの状態でオモニたちが幼い子らを、そのまま家に置いておくことができないために、何とかならないかというところから出てきました。生活のためだったんですね」
「子どもは弁当も持ってこない。だから、三時の『おやつ』はお菓子じゃなくて、1個10円のパンを買ってやりましたよ。1ヵ月に250円(保育料)しかもらわなかったし、それすら出せない人もいましたから。鉄の商売をしていた理事長が、『こどもたちにパンの一つでも多く買ってやるようお願いしますよ』と言ってね。たまに1000円とか500円を持ってきてくれましたよ」(※1)
50年代、愛知県には愛知第1と愛知第8の2つの初級学校に幼稚班があったことが確認されている。
●1957年に幼稚園強化の方針
在日本朝鮮人総聯合会の大会報告で、朝鮮幼稚班の設立について初めて言及されたのは1957年の第3回全体大会のこと。報告では、「…施設、その他条件が備わる自主学校、公立分校では、幼稚班を設置し、就学前児童教育にも力を入れなければなりません」と幼稚班新設の方針が打ち出された。58年の第4回全体大会報告にも、「各初等学校にもできるだけ幼稚班を設置し、学校前教育を強化しなければなりません」とある。
この頃、朝鮮学校は児童生徒数の増加という現実に直面していた。「朝鮮学校の就学者数は、58学年度には6300名の増加、59年9月の2学期開始時には約5000名が、60年1月にも約2700名が入学、また60学年度の新入および編入学の願書受付は7000余名で、結果59年4月に2万3947名だった就学者数は、60年4月には3万6516人名に増加し、152・5%の増加となった」(※2)。祖国への帰国熱に押され、児童生徒数が急速に増えるなかで全国的に学校新設・増築・改築が進み、その過程で初級学校付属幼稚班が多く設置されるようになった。
朝鮮大学校を卒業後、大学院で朝鮮幼稚班の歴史について研究した徐怜愛さん(30、鶴見朝鮮幼稚園教員)によると、朝鮮学校の付属幼稚班は、60年代にかけて愛知、兵庫、大阪などの関西地方からその数が増え、60年代後半から70年代にかけて関東、東海(愛知県を除く)、九州地方に数を増やしていった(別表参照)。70年代には60ヵ所を超える勢いを見せる。
●民族教育の一環として
63年3月16日付の「朝鮮新報」には、「私たちの幼稚園をより多く」と題した記事が掲載されている。
「『私たちの朝鮮幼稚園があったら、どれだけ良いか!』
最近どこへ行っても、このようなことをお母さんたちが話す姿を見ます。このように朝鮮幼稚園の設立問題は、就学前の子どもたちを持つ同胞たちにとって、大きな関心事であり、切実な願いでもあります」。記事には、総聯中央のリ・ジョンス副部長のコメントがあり、「これから民主主義民族教育体系の一環として、わが幼稚園を多く設立しなければなりません。…新年度には、
兵庫県東神戸にて2ヵ所設立することを含め、東京など大きな地域でも準備中です」とのべられた。民族教育において、幼稚班が「就学前教育の一環」だという位置付けがなされていく。
この年の4月に設立されのが、金平団地の福岡朝鮮初級学校付属幼稚班だった。60年4月創立の福岡初級は、62年4月には金平団地に移転。団地には、60年代に福岡市による区画整理のため、立ち退きを強いられた在日朝鮮人たちがたくさん暮らしていた。学校が移転されたことで団地に住む同胞数は増加。生活の現場では貧しい暮らしのなかで働きに出たり、団地内の朝鮮学校の教員として働く母親たちの中で、「子どもたちを安心して預ける場を設けてほしい」との声が高まっていた。そして63年、2階建ての校舎とは別に、金平団地の協同組合の事務所内に付属幼稚班が設置された。
「大勢の同胞が暮らしているから、保護者は安心して子どもを預けることができた」と話すのは、金平団地に55年以上も暮らし、長年協同組合に勤める金栄淑さん(83)だ。金さんは、当時、幼稚園の教員は3人ほどで、園児は10数人だったと記憶する。授業料は無料で、教員もボランティア。「大半の園児は、教員や専従活動家の子どもたち。託児所のような形でトンネ全体が子どもたちの面倒を見ていた。家族のような雰囲気だった」と話す金さん。園では朝鮮語や朝鮮の歌を学び、お昼時に園児たちは母親が作った弁当を持参し、みんなで食べていたという。
福岡では77年10月に北九州朝鮮初級学校附属幼稚班が、80年4月には独自の園舎を持つ小倉朝鮮幼稚園が設立された。
前述の徐さんは、朝鮮幼稚班が各地で拡大していった意義を次のように語る。
「朝鮮幼稚班は、在日朝鮮人の子どもたちが朝鮮の言葉や文化、風習を学び、身につける教育環境を幼児期から設定することにより、その後の学校教育をスムーズに受けられる基礎的な土台を育てる役割を担っていました。また、幼稚班を通じて、子育て経験の浅い保護者たちとつながり、点在する在日朝鮮人を探しだし、互いにつながりあいながら、同胞コミュニティを広げていったのです」(次号に続く)
―朝鮮学校付属幼稚班の設置時期(1950~80年代)-
◇1950年代:愛知第1(50年)、鶴見朝鮮幼稚園(53年)、山口(56年)、愛知第8、西神戸、城北(いずれも59年)
◇1960年代:愛知第2(60年)、下関(61年)、東神戸(62年)、明石、岡山、福岡(63年)、愛知第7、東大阪第5、飾磨(64年)、宝塚、姫路、広島第1(65年)、南武(神奈川県)、東大阪第3、伊丹、網干(66年)、川崎、愛知第3、京都第1、京都第2、尼崎、東大阪第1、東大阪第2、大島(67年)、東京第1、泉州(68年)、東春、京都第3、東大阪第4、中大阪、西成、港(69年)
◇1970年代:豊橋、大阪福島、泉北、北大阪、呉市朝鮮幼稚園(70年)、滋賀(71年)、西東京第2、南部朝鮮幼稚園(埼玉県)、茨城、岐阜、四日市、奈良、徳山(72年)、舞鶴、和歌山、筑豊、宇部(73年)、東京第6、東濃(74年)、東北、浜松、北九州(77年)
◇1980年代:小倉朝鮮幼稚園(80年)、静岡(82年)、長野(84年)、倉敷(86年)
※下記記載の徐、呉の研究をもとに編集部が作成。学校名は地域名のみを抜粋。東海地域には他に愛知第4、愛知第10初級に幼稚班が設置されていたが、併設時期が不明。兵庫県の相生、西脇、高砂、阪神初級も同じく不明。
【出典】※1:『朝鮮学校の戦後史 1945-1972』(金徳龍、2002、日本評論社)/※2:『朝鮮学校の教育史』(2019、呉永鎬、明石書店)
【参考】「日本における朝鮮学校付属幼稚班教育の成立と展開」(徐怜愛、2014、東京学芸大学教育学研究科修士論文)