始まりのウリハッキョ編 “立派な朝鮮人に” 願い受けとめ vol.50 朝鮮幼稚園(下)1970年代の教員たち
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1950年代から各地の朝鮮学校に付属する形で生まれていった朝鮮幼稚班。78年に朝鮮大学校に幼稚班教員を養成する「教養員科(現在の教育学部保育科)」ができるまでは、初級部の教員経験者や日本の大学で保育を専攻した女性たちが、試行錯誤を重ねながら子どもたちの「育ち」を担っていた。
東大阪幼稚班には100人
朝鮮幼稚班は、1950年に愛知で初めて産声をあげた後、60年代には大阪で続々と生まれた。大阪では、64年の東大阪第5を皮切りに、東大阪第3(66年)、東大阪第1、第2、城北(67年)、泉州(68年)、東大阪第4、中大阪、港(69年)、福島、泉北、北大阪(70年)などと設立が続いた。71年から幼稚班教員になった朴信載さん(74、大阪府在住)は、「幼稚班は初級部の土台を築く場所だ」と思い教員を志願した一人だ。
45年に現在の大阪府守口市で生まれた朴さんは、両親が全羅南道出身の在日朝鮮人2世で、4人きょうだいの末っ子。中西朝鮮小学校、大阪市立西今里中学校を経て大阪朝鮮高級学校へ進学、高2の2学期から師範科に進み、教員を目指した。育った家庭が民団で、家では猛反対を受けたものの長兄の理解もあり、生野や東大阪第5で初級部教員を務めた。「当時東大阪第5は、大阪で一番大きい学校で、幼稚班も最初にできました。幼稚園児だけでも100人いて、6、7班くらいあったかしら。日本の保育科出身のチェ・スノクという先生が園長をしていて」。68年に結婚した朴さんは長男を出産後に福島初級に赴任。幼稚班設立の翌71年から幼稚園教員として手探りの日々を送ることになる。
朴さんがまず取り組んだのは朝鮮語だった。「やったイムニダ(입니다:しました)、来たイムニダ、食べたイムニダというまぜこぜの言葉をウリ式に直すようにしました。子どもの前に立つ以上は教員は日本語は一切使わず、100%朝鮮語。生活の流れに沿った言葉を教員たちが話すように、『손씻기 하자요(手を洗いましょう)』など体に関する初歩的なことから、歯磨きや食事で使う言葉を選んで教えました。とにかく、반복、들려주기、말하기、익혀주기(反復、聞かせ、話させ、覚えさせ)の繰り返しでした」。
「うまくいかなければ、方法と手段を研究するしかない。最初は月別にカリキュラムを作り、それだと漠然としているので、週ごとに作りました。保育班(年少)でどのような言葉を教え、年中でどう広げるか、年長でどのように深めるのか。教えるウリマルの数や種類を研究し、童話や寓話、話し言葉を取り入れるなど、大阪府下の教員が月1度集まり研究会もしました。初期は初級学校のように椅子に座らせて教えていましたが、これも子どもの実態にはそぐわないのでやめました」
人形劇や朝鮮料理で
1967年から明石朝鮮初級学校に赴任した李在任さん(80、兵庫県在住)も70年代から幼稚園教員を勤めた一人だ。75年から明石初級の幼稚班教員になった李さんは、授業の方法を学びに朴さんらが企画した大阪の勉強会にも足を運んだという。「当時は指導方法の研究が盛んになされていました。兵庫では人形劇や、朝鮮料理を作りながらウリマルを教えました。
子どもと山へドングリを拾いにいき、ムッ(묵)を作るんです。しばらく乾かすとドングリの皮がはじける。子どもたちが皮をむいてゆでると、茶色い渋が出てきます。떫다(渋い)という言葉も教えてね。でも子どもたちは『渋い』がどんな味なのかもわからない。渋柿を取ってきて食べさせたり、トックやファジョンを作りながら五感を通じて、遊びを通じてウリマルを教えていきました」。
李さんは、東京朝鮮中高級学校臨時教員養成班を1期生で卒業後、静岡県の浜松で教員生活をスタートさせた。結婚後に兵庫県下の朝鮮学校に赴任。西神戸、明石、高砂などで教えつづけ、42年の教員生活のうち、31年を明石初級で過ごした。当時の保護者の大多数は2世で、「朝鮮幼稚園に通わせる以上は立派な朝鮮人に育ってほしいという思いが強かった」と李さんは話す。「『위생실에 갔다오겠어요(トイレに行ってきます)』などの言葉を家で使うようになって、同じように言うよう子どもに指摘されたと、親御さんと大笑いしました」。1世が減る中、家庭に朝鮮語の息を吹き込んだのは園児たちだった。
朝鮮式でも日本式でもなく
1970年代後半から80年代前半にかけた幼稚班教育は、朝鮮式でも日本式でもない、在日朝鮮人幼児の実情というものを押し出しながら、その目的や幼稚班教育のあり方を模索した日々であった。またその具体的な方法は、子どもたちの生活の流れにそって、遊びや経験、子どもたちの自発的な興味・関心を重視した保育方法へと転換していった(※)。朝鮮語、数え、自然、社会、体育、歌遊び、絵画と製作などの領域という概念が生まれ、具体的な方法論が模索されていく。
「初級部式保育」から、生活の流れを意識した「流れ式保育に」―。東京朝鮮第1初中級学校付属幼稚班で、長年教員を勤めた鄭亨順さん(74、東京都在住)は、「流れ式保育」を意識して取り組んだ日々を振り返る。
「晩秋の日に散歩に出かけるとしましょう。どんな花が咲いているのか、どんな人が道を歩いているのか、側を走っていく自動車は何台かを観察します。教員の進め方しだいでさまざまな領域の学びができる。三河島の朝鮮マーケットに行き、ハルモニたちが売っている豚肉や牛肉を見ながら、言葉を覚える。そこで買ってきた食材でマンドゥ汁も食べてみる。子どもというのは遊びや経験を通じて、情緒が備わっていくのです」
独立運動家だった父と日本人の母の間に生まれた鄭さんは忠清北道で生まれた1世。祖国解放後、父は植民地期に受けた拷問がたたり故郷で亡くなり、母一人の手で育てられた。渡日後は日本の教育を受けていたが、兄のはからいもあり東京中高中級部に中3から編入。
教員を強く希望したものの日本籍ということで道は断たれ東京中高の職員となる。同校の教員と結婚し、「朝鮮籍を取得したときの感激は今でも忘れられない」と涙ぐむ鄭さんは、結婚後も夢を捨てきれず通信教育で保育を学んだのだった。長男、二男の出産後、願いが受け入れられ70年に晴れて幼稚班の教員に。東京第1での30年の教員生活を通じて送り出した教え子たちは数知れず、「幼稚班の保護者は一度門をくぐったら最後まで任せてくれた」と現役時代を振り返る。
前述の朴さんは、「幼児たちは、ユチバンという生活空間の中で朝鮮語を覚え、自身が朝鮮人であることを自覚していく。環境こそがすべてではないでしょうか」と語る。
五感全開の幼児期、子どもたちの「無二の感性」を掘り起こした女性教員たちの実践と研究の日々は、民族教育における「幼児期の可能性」を見出した日々であった。80年代に入ると、統一的な教材作りへと、朝鮮幼稚班の教育は発展を遂げていく。
【参考】「大阪民族教育60年史」(2005)/明石朝鮮初級学校創立60周年記念誌(2006)
※引用:「日本における朝鮮学校付属幼稚班教育の成立と展開」(徐怜愛、2014、東京学芸大学教育学研究科修士論文)