「日朝は私のライフワーク」/vol.4 江口済三郎さん(東京・平壌「虹の架け橋」代表)
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東京で中野区議会議員(公明党)を長く務め、日本と朝鮮との友好親善にも尽力してきた江口済三郎さん(74)に、朝鮮で生を受けた自身の生い立ちや日朝問題にかける思いを聞いた。
生まれ故郷に恩返しを
―日本の敗戦直後の1945年9月、平壌近郊でお生まれになったと聞きました。生い立ちについてお聞かせください。
父が満鉄総裁の秘書長を務めていた関係で、戦前は中国の新京(現・長春)で暮らしていました。しかし、45年8月、日本の敗戦の知らせを受けて、母親は子ども4人を連れて引き揚げることになりました。満鉄の幹部の家族、子どもを第一便で引き揚げさせる計画があったそうです。それで、列車で朝鮮半島に入り、平壌郊外の降仙製鋼所(現在の千里馬製鋼連合企業所)にあった旧三菱製鋼の社宅へ。私はそこで生まれました。9月8日のことです。
そこでしばらく過ごした後、38度線がすでに封鎖されたとの知らせを受けて、朝鮮半島を南下しての引き揚げをあきらめて、列車でふたたび父のいた新京へ母子ともども向かいました。そして47年10月、一家で日本へ引き揚げました。
幼いころから母親に、「おまえは朝鮮で生まれた。朝鮮の人たちは、何も持ってない引揚者を助けてくれた。朝鮮の人たちが親切にしてくれたおかげで、おまえはいま生きているんだ」とことあるごとに聞かされてきました。…
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