【イオ ニュース PICK UP】根深い蔑視・憎悪感情とジェノサイドの連なりをみる/関東大震災時朝鮮人虐殺に関する学習会
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関東大震災時(1923年9月1日)の朝鮮人虐殺について深く考え行動する場を作り、歴史的事実をより広範な人々に知らせることを目的としたプロジェクト「1923関東朝鮮人大虐殺を記憶する行動」が連続学習会を主催している。9月19日には第5回目が行われた。
※「記憶する行動」の紹介と第4回目のレポートはこちら
今回は、法政大学社会学部の愼蒼宇教授が「日本軍隊の朝鮮植民地支配経験と関東大震災―朝鮮人虐殺の歴史的背景」というタイトルで講演。愼さんは冒頭で「関東大震災時の朝鮮人虐殺は『天災』ではなく『人災』」だとしながら、しかもそれは「単なる一過性の出来事ではない」と話した。
愼さんは続けて、講演のテーマを伝えた。要点は、▼現在の官民一体のヘイトの源流となる関東大震災時の朝鮮人虐殺は、日本によるそれ以前の朝鮮侵略・植民地支配の延長線上に位置づけることができる(日本の軍隊、憲兵、警察が、多くの朝鮮民衆虐殺を経験し、それによって朝鮮に対する迫害の経験が蓄積されていった)ということ、▼日本の郷土新聞などがその時代ごとに朝鮮人への蔑視と偏見、恐怖や憎悪を広げていったこと-だ。
●100年前から続く差別意識
導入として愼さんは、近年の日本国内における、朝鮮人に対するヘイトスピーチに言及。例として2013年2月に東京・新大久保で行われた「不逞鮮人追放! 韓流撲滅デモ」を挙げ、ここでは「害虫駆除」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」といった言葉が飛び交ったと説明。その上で、「これらの言葉は『在特会』のようなヘイト団体特有の言葉ではない」と指摘した。
「『不逞鮮人』とは、日本が朝鮮を植民地支配していた時代に使われた言葉。民族運動などをする朝鮮人たちを主な対象とし、この言葉が用いられる時には『殺しても構わない』という含意が込められていた。つまり100年前のジェノサイドを内包した差別語が今も使用されている」(愼さん)
ここで愼さんは、関東大震災時に自警団によって殺されかけ、九死に一生を得た同胞・愼昌範さんの証言を紹介。自身の祖父の兄にあたる方だという。
「(1923年の)10月下旬頃、総督府の役人がやってきて、私たちに(中略)この度のことは天災と思って諦めるようにとくどくどと述べたてました」
人災の被害者に対して、日本の警察は当時から「天災」として丸め込もうとしていたと話した愼蒼宇さんは、横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼の辞送付を拒否し続けている小池百合子都知事の発言にもふれ、「今も『天災だった』という理論で人災を隠蔽しようとする姿勢は許しがたい」と批判した。
●「朝鮮植民地戦争」とは
愼さんは前提として、「朝鮮植民地戦争」について解説。「朝鮮植民地戦争」とは、日本による征服に対抗する朝鮮人の蜂起や運動を弾圧する、広範な戦時・準戦時行動の継続であるとした。
具体的に、①「東学農民戦争」(1894.10~1895.1)/②日露戦争下の朝鮮民衆迫害(1904~1905)/③義兵戦争(1906~1915)/④三・一独立運動、シベリア戦争、間島大虐殺(1919~)の4段階を挙げ、「日本軍と憲兵、警察はこれらの戦争を通じて、朝鮮において人的・組織的な迫害経験を構築し、植民地期全般を通じてそれを継続、蓄積していった」と話した。
愼さんは各時代の侵略・虐殺事件について触れたあと、自身が作成した表を参照しながら、これらの「朝鮮植民地戦争」と関東大震災時の朝鮮人虐殺の関わりについてさらに踏み込んだ。表はそれぞれ、1.関東戒厳司令部+地方師団長・歩兵連隊長の主な経歴/2.韓国(朝鮮)駐箚軍・朝鮮軍司令官、参謀長その他各司令官経歴一覧/3.日本陸軍師団と歩兵連隊(一部騎兵・野砲兵連帯も含む)の「暴徒討伐」経験―というものだ。
愼さんは、表1から読み取れるものは、▼地方師団長の大半がシベリア戦争を経験し、さらに日本軍が敗北したため、交戦した社会主義者、民族運動への敗北感と憎悪を募らせる大きなきっかけとなった、▼間島大虐殺時に司令官や諜報活動をしていた人物が、関東大震災時の戒厳司令部の中でも役割を担った(連続性があった)、▼表に挙げられる人物たちの多くが「朝鮮植民地戦争」で虐殺の経験を積んでいる―と説明。
表2でも、多くの人物が、複数の朝鮮植民地戦争、ジェノサイドの経験を積んでいることに気がつく。愼さんは「朝鮮植民地戦争」の特徴について「殲滅と連座性」を指摘。殲滅は、朝鮮人をことごとく殺害するよう命じる方針があったということ、連座性は、蜂起や運動の中心人物だけでなく、周囲の人や出身の地域まで徹底的に討伐するというものだ。
そして特徴のもう一つは、これらの軍事行動をやむなし、あるいは正当防衛だったとし、正当化しようとする姿勢があることだと指摘。「これは関東大震災時の朝鮮人虐殺の事後処理のあり方にも深く影響を及ぼしている」と愼さんはのべた。
実際に数々の「朝鮮植民地戦争」において国際社会から批判を受けると、日本は「そういうことはない、抑制する」というポーズを表面で取りながら、裏では強硬措置を貫徹し、黙認することが恒常化したのだという。
「その結果、軍隊が行った迫害は隠され不処罰となり、報告書の中では事件の隠蔽、正当化がなされる。行政の文書をめぐる取扱は現代の日本で問題になっているが、そういう特徴は戦前からあると思う。弁明の繰り返しによる無反省こそが、このような行動を常に継続させた要因だ」(愼さん)
この特徴がはっきりと表れたのは1919年の三・一独立運動の時だったという。当時の原敬総理大臣は、朝鮮に対する日本の軍事行動が批判されるのを恐れて、朝鮮総督に電報を送っている。「表面的には何事もないようにし、裏面においては厳重に措置せよ」という旨の内容だった。国際社会を意識する記述もあるそうだ。
愼さんは、「そして関東大震災時にも、戒厳令下で虐殺があったあと、流言の事実が認められないことが分かってくると、日本は国家責任の回避と正当化、矮小化を図った」とつないだ。
●連続するジェノサイド
続いて表3についても解説。日本全国に置かれた18の陸軍師団の経験についてまとめたものである。愼さんはまず、すべての師団に朝鮮・台湾・シベリアへの派兵経験があったことをのべ、その中でも単純計算で派兵経験が一番多かったのが東京の第1師団だったとし、さらに大きなジェノサイドも経験している事実から、「このことと、関東大震災時の朝鮮人虐殺において第1師団が果たした役割のつながりを想像するのは決しておかしいことではない」と強調した。
次に、日本の郷土新聞の記述に言及。愼さんはその理由を、「この時期の朝鮮に対する報道の仕方が、後の『不逞鮮人』像につながる暴徒討滅論を日本社会全体に広げたからだ」と話した。
例えば義兵戦争が起こっていた1908年5月9日には、全国紙である読売新聞が社説を発表。内容は、朝鮮に日本軍をさらに派兵し、徹底的な討伐を行う方針を出した伊藤博文の命令を支持するものだった。
文中には、「…韓国の暴徒はあたかも頭上のハエの如く払えば去ってまた来る。これまでの通りに温和なる懐柔策を繰り返すのみにおいては、かえってかれらの軽蔑を招き、…たちまち暴動を行う者あり」といった記述もある。
愼さんは冒頭で挙げた「在特会」の発言を振り返り、「この時から日本は朝鮮人を人として見ていなかったのだ」とのべた。さらに愼さんは、関東大震災時に流言が全国に及び、各地で朝鮮人への迫害が起こったこと、それを広めたのは日本各地の郷土新聞でもあったことを強調した。
●へばりついた植民地主義、直視と克服を
愼さんは結論に入る前に、関東大震災時の朝鮮人虐殺研究の第一人者である姜徳相さんの言葉を紹介した。
「軍隊、警察のみならず日本人庶民、諸侯もまた偏見、差別の持ち主だった。自警団の主体となった在郷軍人、消防団員、青年団のメンバーをはじめ、町の八百屋や魚屋、豆腐屋のおじさんたちはみな甲午農民戦争、露日戦争、義兵戦争、シベリア戦争、三・一大虐殺、間島大虐殺に参加した日本軍兵士の軍歴を持ち、明治以降の日本のマスコミの朝鮮人蔑視観、敵視の風潮に染め上げられていた天皇教徒だったということです」―
愼さんは、数々の事例や資料を挙げて準備したこの日の講演の内容は、上の言葉をより具体的に実証するものになったと思う、とのべた。続けて、「こういった歴史的背景を鑑みれば、関東大震災時の朝鮮人虐殺は単なる一過性の不幸でも、例外的な出来事でもなかったのだと分かる」と再度伝えた。
「深刻なのは、100年前の官民による朝鮮人への蔑視と偏見、恐怖と憎悪が、ほぼ同様の形で、現在の対朝鮮人ヘイトとして表出していること。この100年の間に、日本や東アジアを取り巻く外的条件・内的条件がこれほど変わったにも関わらず、植民地主義は日本社会の官民にへばりついている」
愼さんはそのように憂慮を示しながら、「この克服のためには日本と朝鮮の異なる歴史認識の対話などという生易しいものではなく、未だに植民地主義を克服できない日本の近代史像を見直し、植民地支配、犯罪の罪と加害責任を明確にして近現代の日朝関係に向き合っていくこと以外にない」と締めた。(文・写真:黄理愛)