始まりのウリハッキョ編vol.57 筑豊地域の朝鮮学校・上 /“원한의 땅(怨恨の地)”に建った朝鮮学校
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日本有数の炭鉱地帯・福岡県。筑豊地域(直方市、飯塚市、田川市、嘉穂郡など)はその中心として、第2次世界大戦時に数多くの朝鮮人が強制連行・労働の犠牲者となった。1945年に祖国解放を迎えた朝鮮人たちは、その地で国語講習所を設立した。筑豊地域での民族教育のはじまりだ。※月刊イオ2021年1月号より
炭鉱への強制連行
ノンフィクション作家である故・林えいだいさんの著書『《写真記録》筑豊・軍艦島—朝鮮人強制連行、その後』によると、1939年から1940年にかけての時期、「福岡県内には二五〇以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では一五万人の朝鮮人が強制労働されていた」(※最下部に解説)。
田川市に暮らす安桂源さん(70)のアボジである故・安龍漢さんも、16歳の時に「募集」の名をつかった強制連行で日本に渡り、福岡県田川郡川崎町池尻の豊洲炭鉱上田鉱業所で重労働に従事させられた。
「食べるものもろくに与えられなくて。せめてお腹いっぱいになって死にたいとの思いから、特攻隊に志願したそうです。鹿児島まで行って突撃する直前、奇跡的に解放を迎えたと聞きました」(安桂源さん)
田川朝鮮初級学校の開校
解放後は、日本全国でそうだったように福岡県各地にも国語講習所が作られた。筑豊地域では、田川、嘉飯山、直鞍地域の13ヵ所で民族教育が行われた。一方、同時期に小倉に設立された初等学院(小学校)にはその後、県下唯一の高級部も併設(49年)。筑豊地域からも多くの同胞が同校へ通った。
しかし、同年10月の「学校閉鎖令」によって県内の朝鮮学校は強制的に閉鎖・接収される。同胞たちは日本学校に民族学級を設置するなど奮闘するも、苦難を強いられていた。
転機になったのは1955年5月の総聯結成である。朝鮮学校を自主学校として主体的に運営していくための運動が展開され、56年に折尾に九州朝鮮中高級学校が創立する。同時に、県内各地でも朝鮮学校設立への要望と機運が高まり、筑豊地域では59年9月1日に田川朝鮮初級学校(田川市、のちの筑豊朝鮮初級学校)が開校した。田川労働会館の建物を借りてのスタートだった。
日本の学校に通っていた小学3年生の安さんは、ある日アボジから「4年生から学校、変わるから」とだけ言われ、次の新学期に初級部4年生で同校に編入した。
同時期、同胞たちは新校舎の建設に着手しており、60年8月14日に無事竣工。「今は田川支部もなくなってしまいましたが、昔は田川に分会もあって、同胞たちがたくさん集まって暮らしていました。だからみんな田川にハッキョを建てたかった。“원한의 땅(怨恨の地)”・筑豊にハッキョができたんです」(安さん)。
身銭を削って建設を手助け
しかし、学校を一つ建てるのは簡単なことではなかった。炭鉱労働者出身の同胞が多く、金銭面で大きな苦労を強いられたのである。「決してゆとりがあって運営したのではなく、気持ちはあっても金がない、それでも子どもたちのためにハッキョを作りたい、自分も何かしたいという同胞が多かった」と安さん。
少しでも余裕のある同胞はそのぶん経済的な支援をしたが、その日暮らしの同胞たちは自身の生活を犠牲にしたり、先に手形を切るなどして少しでも財政を助けようとした。「だけど資金繰りが難しい。いつも夕方になると、同胞たちがハッキョに来て喧々諤々していました。ハッキョのために貧乏をしたようなものです」と当時の光景を振り返る。
そんなようすではあったものの、筑豊地域にある唯一の朝鮮学校だったことから、次第に校区も広がり児童数も順調に増えていった。田川市内以外にも、飯塚や直方からも児童が来るようになったのである。65年には各種学校法人の認可を取得した。
安さんは田川初級を卒業後、九州朝鮮中高級学校へ進学。片道2時間の距離を毎日通った。卒業後は朝鮮大学校の文学部外国語学科(当時)で学び、1973年、中級部が併設され飯塚市に移転した筑豊朝鮮初中級学校に赴任した。
バス通学の思い出
現在、在日本朝鮮福岡県筑豊地域商工会の会長を務める鄭炳利さん(63)は、初級部1年生から田川初級に通った。ちょうど学区が広がった頃の在校生で、学校から周辺地域に通学バスが出始めていたという。鄭さんの出身は嘉飯山地区。バスに乗って1時間半ほどかかる距離だ。「子どもたちが多い道を通っていくから、そのぶん時間がかかっていたかもしれないですね」。
また、通学バスといえば忘れられない思い出がある。「バスの運転手は地域の同胞たちが交代でやってくれたんですが、朝銀の職員が帰りのバスを運転する日は、途中で職場に寄って自分の仕事を切り上げてから残りの子どもを送るなんてこともありました」と愉快そうに笑って話す。
他に印象的な思い出は、初級部6年生の時に開かれた福岡県下の朝鮮初級学校による体育大会。数ある初級学校の中、田川初級が2度の優勝を果たしたことが嬉しかったという。
筑豊初中の新校舎建設へ
鄭さんは田川初級を卒業後、九州中高へ進学。中級部で学んでいる頃には、田川初級の移転と中級部の併設、それに伴う新校舎竣工の話が持ち上がっていた。鄭さんは、学校が休みの日曜日などになると、新校舎建設委員会の委員長を任された自身のアボジ、故・鄭璟相さんについて飯塚市の建設現場へ行った。
「山がまるまるそこにある状態から。こんな山が本当にハッキョになるのかなと思っていました。測量の棒を持ったり、土や工事の際に出る屑を運んだりと、同級生たちと一緒にちょこちょこ手伝いました」
設置された掘っ建て小屋でウェハラボジ(母方の祖父)が寝泊まりしながら現場を見守ったり、土木業をしている同胞たちは、仕事の合間を縫ってブルドーザーで乗りつけ山を削ったり…他にも同胞たちが日々一丸となって新校舎建設に取り組む姿を目にした。
竣工式の日は大勢の同胞で賑わい、筑豊朝鮮初中級学校に改称した同校の新たな門出を祝った。「当時の生徒数は初中級部あわせて60人くらいでしたが、誰も『なんで建てたの?』とは思わなかった。これからもっと増えるだろう、今後ここが筑豊同胞社会の中心地になっていくだろうという期待があったと思います」。
筑豊初中の竣工で学区が変更され、児童・生徒数は予定通り増加。朝鮮民主主義人民共和国の芸術団が幾度も同校を訪れるなど、同校は筑豊地域唯一の朝鮮学校として存在感を高めていった。(下へつづく)
(※)引用の発言は、田川警察署の満生重太郎特高主任と飯塚警察署の柿山重春特高主任の二人の証言だという。また、朝鮮人移入者数が最も多かったのは麻生鉱業所で、7996人だった【参考=林えいだい著『《写真記録》筑豊・軍艦島—朝鮮人強制連行、その後』】