始まりのウリハッキョ編vol.58 筑豊地域の朝鮮学校・下 /“筑豊ハッキョ”を記憶の拠点に
広告
筑豊同胞たちの熱意により1959年に創立した田川朝鮮初級学校は、1973年に場所を飯塚市へ移して筑豊朝鮮初中級学校へと名称を変えた。当時の教員、生徒から新校舎建設時のようすとその後の学校生活について聞くと、味わい深い思い出の数々が語られた。※月刊イオ2021年2月号より
念願詰まった竣工式
現在、北九州朝鮮初級学校で教員をしている鄭露美さん(68)は、九州朝鮮中高級学校を経て朝鮮大学校に入学、1973年に師範教育学部師範科を1期生として卒業した。初の赴任先は、その年に自身の地元・福岡県飯塚市に建つことになった筑豊朝鮮初中級学校(前身は田川朝鮮初級学校)だ。
新校舎竣工式が行われたのは5月15日。式典には総聯の韓徳銖議長が出席するとのことで、地域のハルモニ、オモニたちは通学バスに乗り合い、もてなしのための山菜を採りに山へ出かけたという。
「竣工式の当日は一晩中、皆で踊ってご飯を食べて…。筑豊は在日朝鮮人にとって〝원한의 땅(怨恨の地)〟だから、他の地域とはまた違った思いがあったのでしょう。その時の同胞たちの喜びようは、今でもありありと目に浮かびます」(鄭さん)
筑豊初中が竣工すると、筑豊地域の各地から児童・生徒たちが集まった。一方、万寿台芸術団や平壌学生少年芸術団、朝鮮芸術映画代表団、国際貿易代表団など、朝鮮民主主義人民共和国の代表団が数多く同校を訪問。
また、1980年代には《우리 말을 잘쓰는 모범학교(ウリマル模範校)》や《공부를 잘하는 모범학교(勉強模範校)》といった部門別模範校の称号をたびたび受賞。児童・生徒たちの学力向上のため、鄭さんも公私ともに貢献した。「毎回、中央統一試験期間は私の家に生徒たちを呼んで〝合宿〟の日々でした」。
「たとえ人数が少なくてもよそに負けないもの―それは勉学だという意識から、とにかく筑豊ハッキョは皆が勉強を頑張りました」。筑豊初中は、県内にある他の朝鮮学校と比べると規模が小さいながらも、着実にその存在感を高めていった。
16人の編入生
筑豊初中をひときわ有名にした出来事がある。82年、総聯福岡県築上支部の築城分会から、日本の学校に通っている16人の児童・生徒が筑豊初中へ編入することになったのである。前年度から1年間続けてきた「日曜学校」の賜物だった。
「築城には対象年齢の子どもたちがたくさんいました。しかし、県の北東部にある築上郡から筑豊初中までは峠を一つ越えるので、自動車でも1時間以上かかります。当初はなかなか通学が難しいということで、教員たちが交代で毎週日曜日に出張授業をすることになったんです」。
教員2名ほどが自動車に乗り、築城分会を訪ねる。午前中の授業を終えると毎回、同胞宅でお昼をご馳走になった。鄭さんは当時の朝鮮新報の切り抜きを見ながら、懐かしそうに話す。
ある「日曜学校」の日は、朝から大雪だった。今週はなくそうかとの意見もある中、「こういう日だからこそ行くべきだ」との声が上がった。車で雪道を走り、いつもより1時間半以上も遅れて現地へ着くと、築城分会の同胞たちも「まさか」と驚いていたという。
教員たちの熱意に胸打たれてか、翌年の4月の入学式には16人の編入生とともに築城分会の同胞が総出で祝いに駆け付けた。バスの寄贈もあり、児童・生徒たちは送り迎えを受けながら同校へ通った。
鄭さんは他にもさまざまな思い出をひきだしながら長い教員生活を振り返る。「学校が新しく建ち、民族教育が力強く発展していく本当にいい時期に教壇に立つことができた。これまで助けてくれた同胞、そして子どもたち…その気持ちを考えると辞められないなと思い、今まで教員を続けています」と語った。
節約のための「マイ寝袋」
北九州市で育った李大美さん(34)は1992年、初級部1年生から筑豊初中に通った。「出身校を聞かれたら『筑豊』と答えるくらい、思い入れのある場所」だと話す。
「自分たちの時代は児童・生徒数が減っていて、同級生の人数は一桁でした。それぞれいろんな場所からバスに乗ってきたり、中には片道2時間以上かけて通っていた子もいた。とてものどかで、先生方にすごく大事にされた記憶が残っています」(李さん)
財政的に余裕があったわけではなく、校舎は古くなり窓ガラスが割れている場所も。「ハッキョのいたるところにキノコが生えていたり。幼稚班のソンセンニムの机の下からも生えてくるんです。他にもコウモリは入ってくるわ、雨漏りはするわ、でもそれが嫌ではなくて、今でもいい思い出です」と李さんは笑う。
筑豊初中ならではの文化もある。初級部4年生に上がり少年団に加盟すると、児童たちは必ず一人ひとつ「マイ寝袋」を購入していたという。「中央統一試験の時期になると、ハッキョで合宿することもあったので、その時に持参します。そこで寝袋の畳み方を練習して」。
さらに、在日本朝鮮学生芸術競演大会などに泊まりがけで参加する際にも、筑豊生は寝袋を持参。「他のハッキョは布団を注文するんですけど、筑豊ハッキョは節約。自分たちだけ色とりどりの寝袋を持って、さすがに恥ずかしかったですね」。口を開けば次から次へと楽しいエピソードがこぼれる。
新たなつながりの場として
筑豊初中はその後、児童・生徒数減少による運営難で2000年には中級部が北九州朝鮮初中級学校へ統合され、06年に初級部も同様に統合された。李さんは中級部3年生から北九州朝鮮初中級学校へ転校し、朝鮮大学校1年時に統合による休校の知らせを聞いた。
朝鮮大学校を卒業したら母校の用務員になり、古くなった箇所や故障している備品を直したいとの希望があった李さん。「集まる場所、帰る場所がない寂しさが、なくなってみて初めて分かった。とても悔やまれるけど、どうしようもできなかった」。
李さんはその後、地元の朝鮮学校で教員を経験したのち、非専任で在日本朝鮮青年同盟の筑豊支部委員長を務めた。若い世代の同胞に声をかけ、日本の友人たちとチャンダンサークルを始めたほか、地域の総聯支部、女性同盟、朝鮮商工会、青商会などと協力しながら、2016年には新たなコミュニティ「筑豊リボンプロジェクト」を立ち上げた。
「リボン」には、Reborn(再生)と、Ribbon(リボン=結ぶ)の二つの意味を込めた。クリスマス会や出会いのイベントなど、多彩な活動を展開している。
「動く人がいないと筑豊ハッキョの記憶は消えてしまう。1、2世が作り、守ってくれた場所を失ったいま、私たちにできることは、ここに住んでいる同胞たちにコミュニティを感じてもらうこと。同胞たちが集まれる場、思い出してくれる場を小さくても作っていくことが目標です」(おわり)
まだ幼稚園班の年少にも当たらない頃から学校に入りました^^ハンドクス議長にも抱かれた写真もあり.
感慨深いですね,
チョンロミ先生.懐かしい。