Vol.64 始まりのウリハッキョ編/中等教育のはじまり(神奈川)
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胸を張って学べるよう―
山林を購入し学校建設へ
1945年10月15日に在日本朝鮮人聯盟(朝聯)が結成。神奈川県における民族教育は同神奈川県本部の結成後、組織的に発展していった。当時の朝聯神奈川県本部委員長が故・韓徳銖議長である。
横浜市内では各所にあった国語講習所を統合し、朝聯横浜支部の事務所2階で「横浜朝聯初等学院」(46年2月)を設立。これを機に正式な初等教育がスタートした。
児童数の増加に伴って新たな校舎建設の必要性が高まる中、48年に「朝聯横浜中央小学校」の建設が始まる。予定地は横浜朝鮮初級学校と神奈川朝鮮中高級学校の現所在地(神奈川区沢渡)。これまで蔑視を受けてきた同胞の子どもたちに胸を張って学んでほしいとの願いから、高台の一等地に建てることが決められた。
日本の敗戦という複雑な国内情勢、また経済的な不安定もあり建設は困難を極めた。土地の購入だけでなく、建築資材をまかなうにも一苦労だった。当時、木材は配給制。まとまった量を入手することが難しかったため、朝聯神奈川県本部が秋田県にある山林を購入して木材を工面したという。また、熱心な同胞たちが物心両面で建設事業を支えた。
「同胞たちの寄付がなかったら実現しなかったこと」、神奈川朝鮮中高級学校の第3期卒業生である孫用順さん(81)はそう話す。
「実家がパチンコをしている同級生が昔、『あんな大金を寄付するなら家族のために少しくらい残してくれてもよかったのに』と嘆いているのを聞いたこともあります。学べなかった人が多い中、民族性を体現する上で同胞たちが一番協力できる場がハッキョだったのでは」(孫さん)
少しずつ建設を進めていた校舎が、台風の影響で一夜のうちに倒壊する事件もあったが、49年に無事校舎が竣工。しかしその直後である10月には「学校閉鎖令」で土地と校舎が没収される。横浜をはじめとした県下の朝鮮学校は日本の公立分校になったものの、同胞たちの激しい抵抗と運動の結果、払い下げを受けて神奈川朝鮮学園の名義で土地を取り戻した。
民族教育の発展における次の課題は中等教育の実施であった。
教科書の数が足りず…
「神奈川朝鮮中学校」は1951年4月5日、はじめは朝聯横浜中央小学校の教室を借りて開設され、翌52年9月には木造2階建てに6つの教室を持つ中級部校舎が新築された。前述の孫さんは53年に同校へ入学。孫さんは川崎に暮らしており、1期生の姉とともに電車に乗って通った。「遠くの地域からもたくさんの生徒たちが来ていました」。
「同級生は200人くらいだったかな。最初は教科書の数が足りなくて、一学期の間は毎日トンムの教科書を借りて授業を受けていました。出席簿が〝ㄱㄴㄷㄹ〟順なので、〝손〟姓の私は順番が後ろの方なんですね。それで教科書があたらなかったんです」と笑う。
また、教員たちが印象に残っているという。「化学は慶応、英語と日本語は東大、国語は東北大…と日本の有名な大学で学んだ同胞たちが授業をしていました」。
孫さんが特に熱中したのは美術の授業。「南武朝鮮人小学校」に通っている際に絵を褒められたことで、描くことが好きになったと振り返る。中級部の頃は、武蔵美に通っていた韓国出身の同胞から石膏デッサンをはじめ本格的な技術を学んだ。
楽しかった学校生活の思い出は尽きない。「ハッキョの敷地の下に大きな広場があって、みんなでお弁当を持ってそこで一緒に食べたり。それと昔は今ほど建物が多くなかったから、ハッキョから港が見えました。夕日が美しくて、みんなでぼーっと眺めてはぞろぞろと家に帰ったことを覚えています」。
他にも忘れられない場面がある。「運動会で、同胞たちがお酒を持って集まると、本能的になって鬱憤を吐き出したり、喧嘩が始まったり、そういう姿はよく見ました。1世の苦労を2世は目の前で見ていますからね。みんなが集まって楽しい中でも、お酒が入ってくると日頃の悲しさがにじみ出てくるんだなというのは感じました」。
民族教育の発展に一致団結
神奈川朝鮮中学校は54年3月、初の卒業生(74人)を送り出すと同時に、卒業した中級部生を受け入れる形で4月に高級部を新設。学校名を現在の「神奈川朝鮮中高級学校」に改称した。
その後、59年から実現した帰国事業を前後して同胞たちの民族教育に対する熱が上昇。入学希望者は引き続き増加し、1950~60年代にかけて神奈川朝鮮中高級学校の生徒数は1300人に。この急速な変化に対応するため、同胞たちは61年に鉄筋4階建ての新校舎を落成。65年に各種学校の認可を取得して以降も段階的に校舎の増改築を重ねた。
68年からは地上5階、地下2階にも及ぶ鉄筋校舎の建設に取りかかる。70年5月の落成式には5000人もの同胞たちが駆けつけ、県を挙げての功労を盛大に祝った。これが神奈川朝鮮中高級学校の現校舎である。
孫さんは神奈川朝鮮中高級学校を卒業後、臨時教員養成所で半年間学び、川崎朝鮮初級学校や南武朝鮮初級学校にて教鞭をとった。結婚して子どもを授かると同じように神奈川朝鮮中高級学校へ送った。現在は孫が同校高級部で学んでいる。
「民族教育を受けられたことは本当に良かった。何かを見ても自分のアイデンティティから物事を判断できる。アイデンティティがないのは寂しいことですよ。息子も李姓で堂々と生きている。日本の友人たちと接していても、決して恥じることのない姿を見せられる。そういう自分が好きです」(孫さん)