【特集】在日コリアン、名前の話
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4世、5世が生まれるこの時代、ウリイルムで育てたい、と願う人たちがいます。一方、在日コリアン社会を見渡すと、植民地時代の「創氏改名」の名残もあり、日本名で暮らす人たちも少なくありません。日本の公立学校に通うコリアンルーツの子どもたちの民族名、1世の生きざまを想いながらの名前考、民族名を取り戻した決心と闘い…。在日コリアンをめぐる、名前の話を集めました。
ほやほやのイルム、集めました
今時の赤ちゃんのイルムは―? 名づけのこだわりや、名前の由来、名前に込めた思いを聞きました。
聞かせて、あなたの名前
植民地期の「創氏改名」によって名乗らざるをえなかった「日本名」には、どんな家の歴史が込められていたのか? 子を育てながら、一世の親との別れを通じて…。名前をめぐる話を聞かせてもらいました。
①5歳日本一周の旅、「朝鮮人なんだ!」と言えた
崔美麗さん(43歳、北海道在住)
②アボジから聞いた「通名」の由来
蔡鴻哲さん(68、千葉県在住)
③解放後、一度も使わなかった日本名
鄭映心さん(51、埼玉県在住)
④金光、中村、大田の由来は
金優子さん(69、神奈川県在住)
⑤曺氏は「夏」がつく?
曺英蘭さん/3世
⑥二つの通名
紫野の金/3世
ルポ・「私」をどう名乗る?
出会いなおす、自分と―
●イルム漫才を作った!
大阪市立舎利寺小学校の民族学級講師の柳侑子さん(32)と民族学級保護者のムン青ヒョンさん(50)は、2021年9月にイルム(朝鮮語で名前)をめぐる漫才を作り、民族教育フォーラム2021の場で披露した。コンビ名はパッピンス(かき氷)。まだ暑さが残る季節にピッタリのコンビ名、漫才は、幼い頃から2つの名前があった柳さんの「名乗りをめぐる葛藤」をベースにした内容だ。
笑いと冗談を交えながら、話は本題へと…。
柳「『イルム』ってどういう意味か、わかる? 『名前』っていう意味。自己紹介するから聞いて。私の名前はリュウユジャです」
ムン「ユジャは普段、どんな風に呼ばれてる?」
柳「みんなには『ユジャ』って呼ばれている。でも親には『ゆうこ』とも呼ばれているよ。ユジャって民族学級でソンセンニムに呼ばれているみたいで、子どもに戻った気分…」「(自分に)ルーツがあってよかったと思うことが大事やな。イルムは名乗り、呼ばれることで、生き方に直結するものなんやで」―。…
●オモニの姓もあわせて
大阪府在住の呉未来さん(32)は、数年前からオモニの姓である金を加え、「金呉未来」を名乗っている。
幼い頃から〝当たり前〟とされていることに対するモヤモヤを感じる場面が多かった。民族学校に通っていた頃、学級委員長や生徒会長に立候補すると「〝長〟は男の子、女の子は〝副長〟」と諭されたこと。女子児童は舞踊を、男子児童は柔道をするよう最初から決められていたこと。「いま振り返ると性別役割分担や『らしさ』の押しつけが嫌だったんだなって」(未来さん)。…
つながりを辿る ものとしての、イルム
崔寿南 ●京都市「コリアみんぞく教室」講師
京都市内の民族学級は1951年に生まれました。70年の歴史を経て、現在は京都市内の2校で「コリアみんぞく教室」という形で運営されています。
私が2012年から講師を務める学校は、戦前から在日コリアンが多く住む京都市南区に位置しています。毎年、東九条マダンも行われ、NPO法人「エルファ」もあり、かつては京都朝鮮第1初級学校が運営されていたコリアの文化が根付いた街です。
本名は日本名、という感覚
「コリアみんぞく教室(以下、みんぞく教室)」では、コリアルーツにつながる子どもたちが集い、ハングルの読み書きや朝鮮半島に伝わる伝統文化、伝統楽器の演奏、踊りなどに楽しく触れながら学んでいます。
私が京都で講師を務めだしたのは19年前の2002年。その頃、朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちの国籍は、「朝鮮・韓国」が8割ほどでした。今は、日本国籍を持った子どもがほとんどです。日本人とコリアンとの国際結婚によって生まれた子どもたちが多く、生まれた時から日本国籍、そして日本名で暮らしています。曾祖父母や祖父母が、戦前に朝鮮半島から渡ってきた歴史を知らない子が大半です。よって「みんぞく教室」に来る子どもにとって、「本名」は日本の名前という感覚です。…
Essay “朴沙羅”になる方法
変わるものと変わらないもの
私の名前は、両親の国籍と日本の戸籍法・国籍法の3つの間で様々に変わってきた。
私は母が日本国籍、父が韓国籍で、1984年に生まれた。生まれた時、私には韓国籍しかなく、私の名前は「朴沙羅」だった。しかし翌85年、日本の国籍法が改正されたため、私は経過措置により日本国籍を得た。その際、私は母の戸籍に編入したため、私の氏名は戸籍上、母の氏+名(仮に母の氏を田中とすれば「田中朴沙羅」)となった。
しかし、日常生活においては、私は常に「朴沙羅」だった。戸籍名のみが正しい名前だとするなら、私はずっと姓が朴、名が沙羅という通称名を用いていた、と言えなくもない。
それでも、私に「朴沙羅」以外の名前はない。この名前のゆえに民族差別に遭い(それでも、明確ないじめから日常的なマイクロアグレッション、オンライン上での攻撃等で済んでいるのだから、両親の世代に比較すればましになったとは言える)、そのような体験の意味を引き出そうとして、自分自身の人格と呼べるものを作ってきた。…
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ぱく・さら●1984年、京都生まれ。2013年、京都大学文学部博士後期課程研究指導認定大学、博士(文学、2013年)。立命館国際関係学部、神戸大学国際文化学研究科を経てヘルシンキ大学文学部。移民・ナショナリズム研究。著書に『外国人をつくりだす』(ナカニシヤ出版、2017年)『家の歴史を書く』(筑摩書房、2018年)『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房、2021年)
日本的「イエ」制度の押し付け
植民地支配政策としての創氏改名
在日朝鮮人の日本名の歴史的背景を考えるために、植民地支配期の1940年に実施された「創氏改名」について水野直樹・京都大学名誉教授に寄稿してもらった。
●創氏改名政策とはどのようなものだったのか
創氏改名政策は「創氏」と「改名」に分けて考える必要がある。「創氏」とは文字どおり「氏を創る」ことである。朝鮮の家族・親族においては、家の名称である氏ではなく「姓」がある。姓は父親の名字を子どもが引き継いで、結婚をしても変わらないというもの。夫婦が異なる姓を持っているのは、そのためだ。これは父系の親族集団が社会的結合の中心になっていることを表わしている。これに対して、日本の家族は全員がただ一つの名字を名乗っている。これが「氏」である。このような氏のあり方は、明治時代に「イエ(家)」制度を確立して、天皇への忠誠心を持たせるために定められたものだ。植民地支配の下に置いた朝鮮でも朝鮮人に天皇や日本国家への忠誠心を持たせる、そのためには朝鮮の家族のあり方を日本と同じようにする必要があると支配当局は考えた。その手段の一つが「創氏」だった。…
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