“空手チョップ”がくれた勇気と元気/【イオインタビュー】Vol.8 田中敬子さん(力道山夫人)
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金信洛として日本植民地支配下の朝鮮半島・咸鏡南道で生まれ、空手チョップを武器に日本のプロレスの礎を築いた力道山(1924—63)。戦後日本で絶大な人気を博したヒーローを間近で見てきた妻の田中敬子さん(81)にインタビューした。聞き手は、田中さんと親交がある宋修日さん(51、朝鮮大学校体育学部長、在日本朝鮮人空手道協会理事長)。
宋修日(以下、宋):6月17日放送のNHK「アナザーストーリーズ『戦後最大のヒーロー 力道山 知られざる真実』」を観ました。私の周りの在日コリアンの中でも大きな反響がありました。
田中敬子(以下、田中):テレビの全国放送で、あのような形で夫の出自を明らかにするのは初めてではないでしょうか。夫の出自を公にすることを芳しく思わない人たちもいますが、何がだめなのでしょうか。
宋:敬子さんと初めてお会いしたのは、4年前の2018年でしたね。私の空手の仲間であり、在日本朝鮮人空手道協会所属の選手たちを指導してもらっている遠山栄一郎先生が、協会主催の「コリアンカラテフェスティバル」(9月1~2日)に敬子さんを招待したいと提案されました。恥ずかしながら、私はそれまで力道山先生夫人がご存命だということを知りませんでした。
田中:ふふふ。よく言われるんですよ、「まだ生きてたの?」って(笑)。
宋:近著『今こそJAPANに力道山!』を拝読しました。力道山先生との出会いのエピソードは印象的ですね。
田中:高校卒業後、日本航空のキャビンアテンダントになりました。1962年、21歳の時、警察署長だった父が、親しかったプロ野球・大洋ホエールズ(現DeNA)の森徹選手のお母さんに私の写真を見せたのが始まりです。森さんのお母さんがこの写真を気に入って森さんに見せたのですが、かれにはすでに婚約者がいた。そのかわりに、かれが「兄貴」と慕う力道山に私の写真を見せたそうです。
宋:それで力道山先生が敬子さんを見初めたと。
田中:私のフライトスケジュールを会社に問い合わせて調べ上げ、私が乗る便に合わせて自分の出張予定を作っていたみたいです。
宋:今なら問題になってもおかしくない(笑)。
田中:初めての出会いは、ロサンゼルス行きの国際線ファーストクラス。「田中敬子です。よろしくお願いします」とあいさつすると「ああ、君かぁ」と言われました。本人はすでに私の顔を知っている。実物が目の前に現れたので、こういう反応になったみたい。お酒をたくさん飲まれていたので、「お強いですね」と話しかけると、「強くないですよ。僕は飛行機が怖いので、飲んでいないとだめなんです」と返ってきました。テレビで見る姿とのギャップが新鮮でした。…
PROFILE
たなか・けいこ●1941年6月6日、神奈川県横浜市生まれ。神奈川県立平沼高等学校卒業。60年、日本航空に客室乗務員として入社、主に国際線を担当。63年6月、力道山と結婚。同年12月8日、ナイトクラブで力道山が暴漢に刺され、1週間後の15日に39歳で死去。翌64年3月、娘・浩美を出産。現在は力道山の菩提を弔いつつ社会貢献活動に従事。新日本プロレスのオフィシャルショップ・闘魂ショップ水道橋店の名誉店長。著書に『夫・力道山の慟哭』(双葉社、2003年)、『闘え、生きろ、老いるな! 夫・力道山の教え』(現代企画、2008年)、『今こそJAPANに力道山!』(パロアルトコード、2019年)。