【特集】朝鮮新報平壌支局 その仕事と裏側
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朝鮮新報平壌支局が開設されたのは1988年12月。朝鮮新報記者らは1970年代から朝鮮と日本を往復しながら活動してきたが、支局開設後は常駐体制が整い、朝鮮報道の新境地が開かれた。西側を拠点に活動するメディアが、30年以上にわたり朝鮮に支局を置くのは他に類例を見ない。
平壌支局記者たちは首都・平壌だけでなく全国各地を訪ね、南側や世界各地へも足を運んで、在日同胞の視点で現地のニュースを伝えることで祖国と同胞たちをつなぎ、日本をはじめとする西側メディアの報道に惑わされない道標を示してきた。記者たちを物心両面で支え、いつも温かく迎えてくれた朝鮮の人びとの支えも忘れてはならない。朝鮮新報平壌支局、その仕事と裏側を、月刊イオが独占報道します!
動く! 平壌支局
朝鮮新報平壌支局記者たちは、朝鮮の政治、経済、文化、暮らしの隅々まで取材し、北南、朝・日関係に深くコミットしながら歴史的瞬間を現地から報道してきた。貴重かつ膨大な仕事の一部を紹介する。
「ソウルに北のパルチザンが現れた!」/ホテルを抜け出し林秀卿宅へ…!
1990年12月12日、第3回北南高位級会談取材のためソウルを訪れていた平壌支局記者らは、南側当局の目を盗み、宿泊していた新羅ホテルを抜け出して労働新聞記者と共に林秀卿の自宅を目指した。目的は、林秀卿の家族に北側の人びとと在日同胞の激励を伝えること。89年7月、第13回世界青年学生祭典に参加するため第三国を経由して平壌入りし、南に戻った韓国外国語大学校学生の林秀卿は当時、国家保安法違反容疑で投獄されていた。
「虎を捕まえにいきます」/朝鮮の著名人を密着取材
1996年夏のアトランタ五輪で金メダルが確実視されていた日本の田村亮子(48㌔級)を倒し、朝鮮に金メダルをもたらした、ケ・スニ。彗星のごとく世界舞台に現れたケ選手を、祖国凱旋後に取材したのは、当時平壌支局に駐在していた玄奉烈さん(51)だ。
私たちがつないでいます!
朝鮮新報平壌支局ってどんなところ? 現地でどのように取材して記事を書いているの? 誰が働いているの? 平壌支局勤務経験が豊富な同紙の姜イルク記者(51)に聞きました。
いつか平壌に行けたなら
本誌編集部では年に1回は平壌に取材記者を送っていたものの、新型コロナウイルスの感染が広がってからの3年間は
現地取材の道が断たれている。平壌に行けたなら―。記者たちが「いつか取材したいこと」を綴ります。
現地スタッフがお届け! 最旬! 平壌発レポート
朝鮮の人びとの現在の暮らしについて、朝鮮新報平壌支局現地スタッフから届いた最旬平壌レポートをお届けします。
①仕事も子育ても!/週託児所制度で実現するワークライフバランス
朝鮮には、未来を担う子どもを社会全体で育てる社会制度が整備されている。どのような制度の下で、どのように子育てをしているのか。韓徳銖平壌軽工業大学教員のキム・ヨンヒさん(32)のケースを見てみよう。
②スマホ時代の料理事情/献立アプリで毎日の料理を楽しく
日々の食事作りはスマホアプリで―。スマホアプリ「料理の世界」が若者世代の生活に浸透して久しい。
③“かつてなかった光景”/パジ・チョゴリが静かなブーム
色鮮やかで華やかな民族衣装は、往々にして女性たちのそれに注目しがちだが、朝鮮では近年、若い男性たちの間でパジ・チョゴリが静かなブームになっている。