【イオニュースPICK UP】朝鮮植民地戦争と関東大震災虐殺の関係性/慎蒼宇さんが講演会
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1923年9月1日に発生した関東大震災時に多くの朝鮮人が虐殺されてから今年で100年。5月20日に、文京区民センター(東京)にて『関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史的背景』と題し、慎蒼宇教授(法政大学)が講演会を行った。「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会」が主催し、約250人が参加した。また、会場には「一般社団法人ほうせんか」が提供した大震災時の虐殺関連資料が展示され、参加者は当時の状況を、資料を通して確認した。
主催者あいさつをした共同代表・田中宏さん(一橋大学名誉教授)は、11日に都内で行われた同委員会の記者会見後にG7サミットの首脳宛てで参加国の駐日大使館に送られた書簡を紹介。田中さんは「日本政府がいかに虐殺と向き合ってこなかったのか」について話した。
講演で慎さんは、関東大震災時「警察や軍隊といった官と、自警団に代表される民の双方は『不逞鮮人論』の幻影を増幅させ、無実の朝鮮民衆への暴力に転化させた。現在もこの時期に形成された植民地主義が歴史認識上も、人権上も、意識上も克服されていなければ、また同じことが起こりうる」という問題意識の下、虐殺が行われた背景を紐解いていった。
関東大震災時虐殺の一般的な研究で、朝鮮人蔑視から段階が上がり、殺しても構わないという含意を持つ「不逞鮮人」像がいつ、どのように形成されたかについての視点の欠如を指摘。その上で、関東大震災と朝鮮での植民地戦争経験の関係を論じていった。
まず、慎さんは、植民地での軍事的暴力と現地の人びとの抵抗を近年、「植民地戦争」と呼ぶようになったと説明。甲午農民戦争(1894-1895年)からはじまり、3・1独立運動(1919年)、間島虐殺(1920年)などの朝鮮植民地戦争から関東大震災への展開についてのべた。
関東大震災時における、官の側である軍隊を率いた陸軍上層部、民の側である自警団のなかでも大きな役割を果たす在郷軍人の植民地戦争経験について豊富な資料を基に説明した。
慎さんは、植民地戦争で、抵抗する朝鮮民衆に対する日本軍の「暴徒討伐」では、徹底的な「殲滅」と一般住民も巻き込んで関係する人を虐殺する「連座」が繰り返されてきたと指摘。
関東大震災時には、「『朝鮮人暴動』というデマによって、『殲滅』『連座』の虐殺が繰り広げられた」とし、虐殺は「決して震災下の混乱のなかで発生した偶発的な出来事とはいえない」と主張した。
また、甲午農民戦争といった植民地戦争で日本軍隊が内外からの批判逃れの論法として、「やむなく発砲」や、「正当防衛」論を用いたように、関東大震災時にも「やむを得ない事情」という倫理が使われたとした。
関東大震災で朝鮮人は①虐殺され、②事後処理によって虐殺が隠ぺいされ、③今も政府による公式謝罪もなく、歴史修正主義が止まずに「三度殺された」と話した。
「朝鮮人は『反日』だというのは、『不逞鮮人』観に通底しており、ヘイトや歴史修正主義とセットになっている。朝鮮人を『反日』と言うのは、朝鮮人がなぜ民族独立運動を行ったのかという理由や背景を考えようとしていない」とのべた。
最後に、慎さんは、「『植民地支配の罪』として、関東大震災の虐殺を位置づける」重要性を説いた。
講演会を開いた「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会」には、「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」代表の山本すみ子さんや、ジャーナリストの安田浩一さんら183人の呼びかけ人が名を連ね、賛同団体は88団体(14日時点)に達している。同委員会は、8月31日に都内で追悼大会、9月2日には国会前でキャンドル行動を予定している。(文・写真:康哲誠)