戦争に勝者も敗者もない。庶民が一番苦労します/【イオインタビュー】Vol.11 海老名香葉子(エッセイスト)
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落語の林家一門を支えてきた海老名香葉子さん(89)が今年2月、戦争を止めたいとの思いから「ババちゃまたちは伝えます」という歌を作った。朝鮮語、中国語、英語に訳されたこの歌がコンサートや平和の集いで歌われている。90歳を迎える今も、平和を希求する“おかみさん”の言葉を聞いた。
ババちゃまたちは伝えます
―6月9日に東京都内で行われたコンサートでは、海老名さんが作詞された歌「ババちゃまたちは伝えます」が披露されました。東京朝鮮第1初中級学校附属幼稚班、台東初音幼稚園の園児たち、日本、米国、中国の歌手たちが、海老名さんの平和への思いを伝えてくれました。
「戦争がなきように」って子どもたちが大きな声でうたっている時にね、涙が出ました。
朝鮮学校のお子さんたちが可愛かったですね。今年の3月9日、上野公園の「時忘れじの集い」で初めて歌ってくれたんですけどね、子どもさんたち、たった10日間で歌を覚えてくれて…。驚きました。
実は今年に入って名古屋に暮らすロシアの方に手紙をいただいたんです。「ロシアの100万人の女たちは苦しんでいます。夫、息子、孫たちを皆戦場に行かせ、苦しんでいます。日本のお母さん、助けてください」って書かれていました。私、日本のお母さんなのかと思って、2月に一気に書き上げました。戦争には勝者も敗者もない、庶民が一番苦労する。そのことを国を超えて伝えたいと思いました。
―海老名さんは、1945年3月10日に起きた東京の下町大空襲で、兄一人を除く一家6人を亡くされました。
11歳で戦争孤児になり、兄と二人ぼっち、残されました。
東京大空襲の日の夜は、空襲警報がひっきりなしに鳴り響いていました。
44年7月、国民学校5年生の私たちの年から学童疎開が始まり、私は静岡県沼津の叔母のところへ疎開していました。
静岡の駿河湾上空を米軍の爆撃機B29が数えられないほど、東京の方へ飛んでいきました。山の中腹に立って東京の方角を見ると、墨を流したような暗い空のはしのほうが真っ赤に染まっていました。大空襲から6日が過ぎ、すぐ上の喜兄ちゃんがたった一人、沼津の家にやってきました。「かよ子、父さんも、母さんもみんないないんだ。死んだんだよ、死んだんだ…」。兄と私は抱き合って大声をあげて泣きました。
下町一帯ではたった2時間の間に約10万人が亡くなりました。東京の人たちは、本当に大変なことを経験したんです。
深川、本所、浅草、向島…あの木造の密集地で、一番密度が高い、 人口が多い、木と紙でできている場所に米軍は焼夷弾を落としたんです。逃げ場をなくして丸焼けにした。焼夷弾の怖さは、原爆に匹敵するくらいの怖さです 。
聞いたときは、卑怯なやり方だなと思いました。なぶり殺しです。焼夷弾にはいくつか種類があって、例えば1万メートルから落とすと1発が300発になるものもあります。それが地上から700メートルほどの高さまでくると、その2倍になって600発になる。それに焼夷弾というものは粘着性の火の玉なので、それが落ちてくっついたら、そこから燃えてどこまでも燃え広がっていきます。子どもにくっついて親が取りのけようとすると、親の手にもくっついてしまう。それが下町一帯に落とされたのです。
燃え広がった火の中にいた人はどんなに苦しかったでしょう。3月10日の東京を偉い人が見て、戦争を止めていたら、沖縄戦、広島や長崎の原爆もなかったはずでした…。
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