沖縄の被害と加害を見つめて/【イオインタビュー】Vol.12 最終回 目取真俊(小説家)
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沖縄の自然と歴史、沖縄人としての生き方を小説として紡ぎ出してきた目取真俊さん(63)。沖縄戦や基地反対運動といかに向き合い、沖縄の現状をどのように見ているのか。沖縄の被害と加害の視点を持つ小説家の言葉を聞いた。
沖縄戦への応答
―アジア・太平洋戦争の中、米軍を主体とする連合軍が1945年3月26日、沖縄の慶良間諸島に上陸し、日本軍との間で「沖縄戦」が始まりました。9月7日まで約3ヵ月続いた沖縄戦は、「国体護持」を目的とした「本土決戦」のための時間稼ぎであり、日本軍の主な任務は、住民を守ることではありませんでした。当時の住民の約4人に1人にあたる約10数万人が犠牲になりました。目取真さんは、肉親や親族からそのような沖縄戦の体験談を聞いて育ったと聞きました。
私が生まれた1960年は沖縄戦から15年で、まだ戦争体験者がごく身近にいて、祖父母や両親、親戚など、自らの体験を話してくれる人がたくさんいました。父は「鉄血勤皇隊」として中学生で従軍しました。私が生まれた今帰仁村が位置する北部地域は、戦闘自体は早く終わりましたが、日本軍による住民虐殺や米兵による暴行事件などが起こっています。伯母からは、家の斜め前に日本兵の「慰安所」があり、「慰安婦」を求める日本兵がたくさん並んでいた、米軍が来てからは女性たちが米兵を相手にさせられたと聞きました。祖父母からは「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という話もよく聞きました。それが沖縄の住民の実感だったと思います。肉親から聞いた生の体験は、私が沖縄戦を考える原点になりました。
―学生の頃から米軍基地に反対する運動に身を投じた経験も現在の小説家、活動家としての目取真さんを形成しているように思います。
大学に入り、反戦運動に参加するなかで沖縄に集中する米軍基地の実態を知りました。施政権返還(1972年)後の沖縄でも、過去の沖縄戦は終わっておらず、「基地問題」として継続していることを肌で感じました。
当時は米軍の実弾演習があり、105㎜砲や155㎜砲の実弾が、頭の上をしゅるしゅると音を立てて飛んでいく。アスファルトに座っていると、着弾の衝撃がズズンと内臓に響くんですよ。こういう体験を通して基地問題と身内の戦争体験がつながりました。
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以上がインタビューからの抜粋です。記事全文は月刊イオ本誌2024年1月号をご覧ください。
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めどるま・しゅん●1960年沖縄県今帰仁村生まれ。琉球大学法文学部国文科卒業。短編から長編小説に至る多くの文学作品を紡ぎ出しており、これまで「水滴」(1997年)で芥川賞、「魂込め」(1998年)で川端康成賞など数々の受賞歴がある。2023年2月には10年ぶりとなる短編集『魂魄の道』(影書房)を発刊。小説のほかにも、評論集として『沖縄「戦後」ゼロ年』(生活人新書、2005年)、『ヤンバルの深き森と海より』(影書房、2020年)などがある。ブログ「海鳴りの島から」(https://blog.goo.ne.jp/awamori777)で基地建設反対の今をリポートしている。