「北朝鮮問題」をめぐる思考停止
広告
世間の耳目を集めた朝鮮民主主義人民共和国の人工衛星打ち上げが今月13日に行われた。結果は、周知の通り、失敗に終わった。
衛星打ち上げを巡る一連の動きも一段落がついたように見える。個人的に思うことはいろいろとあるのだが、それをこのブログの場を借りて書いてみたい。多分1回では終わらないだろう。
まずは、2年前の再来ともいうべき「弾道ミサイル騒動」について。相も変わらずというか、もはや「お約束」と化している感があるが、3月16日に朝鮮の宇宙空間技術委員会が自前の実用衛星を打ち上げると発表してから約1ヵ月の間、日本では政治家やメディアをはじめ官民挙げての大騒ぎが起こった。
衛星打ち上げを非難する彼らの論調は「人工衛星の打ち上げであってもその技術は弾道ミサイルと同じだから許せない」というもの。これを鬼の首を取ったように「ドヤ顔」で主張するのだが、そのロジックはもういい加減に聞き飽きた。
当たり前すぎて改めて話すのも気が引けるが、今一度指摘しておきたい。ロケットは軍事目的にも平和目的にも使えるという「汎用的性格」を持つ。ゆえに、人工衛星の打ち上げに成功するということは同時に、弾道ミサイルの能力拡大も意味する。そして、今回の実用衛星打ち上げに込められた朝鮮側の目的も一つではないのかもしれないが、問題は、さまざまな意図が込められた国家的プロジェクトとしての人工衛星打ち上げを「弾道ミサイル発射実験」という一点にのみ還元し、他のさまざまな要素をバッサリと切り捨て頭ごなしに否定するのが正しい対応なのか、ということだ。
米国や日本などは、今回の打ち上げが09年6月の安保理決議第1874号違反だとしているが、同決議が果たして国際法に基づいたものなのかを問う姿勢もない。宇宙空間の探査・利用はすべての国、全人類が自由に行うことができると定めた国際条約としての宇宙条約の精神は無視してかまわないというのだろうか。
朝鮮は今回の打ち上げのプロセスに関して、これ以上はないというほどの透明性を確保した(ただ、打ち上げ当日にこっそり発射ボタンを押したことはいただけない)。しかし、偏見に凝り固まった人びとにとっては、「批判をかわすためのカモフラージュに過ぎない」ということなのだろう。
「開発者たちは失敗の責任を取らされ、強制収容所に送られる」といった話にいたっては苦笑してしまう。人工衛星問題に限らないが、「北朝鮮は存在そのものが悪なのだから、何を差し置いてもまずは叩くべき。検証などは2の次だ!」といわんばかりの思考停止ぶりが目立つ。「北朝鮮とはこういう国」だと勝手に作り上げたイメージ(それは多くの場合、現実に即さない誤ったイメージ)を基に叩く一種の「藁人形論法」。
なぜ朝鮮は人工衛星を打ち上げようとしているのか、このような問題が持ち上がるたびに地域情勢が緊張するのはなぜなのか。朝鮮半島問題を歴史的に考察したうえでこのたびの問題を分析する視点を、メディアの報道や政治家の発言からはほとんど見出すことができなかったように思う。
起こっているさまざまな変化を見出せず、旧態依然とした認識にしがみついていては状況は何も好転しない。「こうあってほしいと望む北朝鮮」ではなく、「あるがままの北朝鮮」を見るべきではないだろうか。このような視点は「好き、嫌い」や「擁護する、しない」云々とは別のレベルで十分に可能なことだと思う。(相)