権利の後退招きかねない「寛容主義」
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人権協会(在日本朝鮮人人権協会)が年に2回発行している「人権と生活」。
毎号とても読みごたえがある内容となっていて、勉強にものすごく役立っています。
今年6月発行の第34号の特集テーマは「在日朝鮮人の人権――歴史と現在 ~植民地主義と分断を問い直す~」というもの。
在日朝鮮人の人権については、東アジアや朝鮮半島と日本との歴史的関係性の克服なしに、日本における差別をなくすという観点だけをもってしては大きな陥穽(かんせい)にはまりかねないという重要な問題提起がなされていて、大変参考になりました。
現在、朝鮮学校への「高校無償化」適用問題は、政局の混乱の中でまったくもって進展が見られなくなっていますが、
日本における在日朝鮮人の民族教育、ひいては人権をめぐる議論においても、ちゃんとした問題意識を常にもっていなければならないと、「人権と生活」を読みながら再認識させられました。
「人権と生活」34号に掲載されている鄭栄桓さん(明治学院大学教員)の文中では、
「朝鮮学校生の高校無償化排除を批判する議論に象徴的に現れているように、現在の日本のメディアでの排除反対論は『朝鮮学校は北朝鮮とは違う』『朝鮮学校は昔とは違う』『朝鮮学校は日本にとっても有益だ』といった、
朝鮮学校が日本社会にとって許容可能な存在へと変化したことを根拠に政府の排除措置に反対するといった主張が大勢を占めている」
といった指摘がなされています。(鄭さんはこれを「権利論なき擁護論」として批判しています)
つまり、在日朝鮮人の権利が一面的に、抽象的な「マイノリティ」の権利としてのみ語られることによって、日本の朝鮮植民地支配の下でその支配と弾圧を受け続けた存在としての歴史性を有している在日朝鮮人の人権問題を解決することにはつながらず、むしろ権利の後退を招く可能性が高い、ということです。
確かにそうです。
一見リベラルで寛容に聞こえる日本の一部メディアの言説は、朝鮮学校が日本社会に親和的である限りにおいてなら排除する理由はないのだという論理にすぎません。
ここでは日本社会の同化主義的な圧力が問われることはないのです。
日本の一部メディアのみならず、同じような論法を、私たち在日朝鮮人自身が用いてしまっている場合も少なからずあります。
在日朝鮮人の権利を語るうえでは普遍的人権の観点ももちろん用いることもできるとは思いますが、まずは必ず、在日朝鮮人の歴史を明らかにするプロセスが不可欠なんだと肝に銘じなければならないでしょう。
そしてまた、このような命題を、私たちはこれからも絶えず日本社会に向けて発信していかなければならないと感じます。(里)