「福島菊次郎遺言集 写らなかった戦後3」を読んで
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先週のブログにも書いたが、映画に引き続き
「福島菊次郎遺言集 写らなかった戦後3殺すな殺されるな」という本を読み終えた。
シリーズものの1と2を飛ばしていきなり3巻から買って読んでしまったのが、それには訳がある。
それは写らなかった戦後3の第3章のタイトルが
「朝鮮人は人間ではないのか」というタイトルだったから。
とりあえず気になるものから読んでしまいたいという欲求からだ。
3巻は4つの章に分けられている。
1.殺すな、殺される、憲法を変えるな
2.遺族と子どもたちの戦争は続いていた
3.朝鮮人は人間ではないのか
4.祖国への道は遠かった
全般にわたって筆者がみてきた戦後の日本をありのままに知ることができ、
強い衝撃を受けた。
戦争という悲惨なものが終わっても、その後も深く残り続けた傷跡の数々、
取材をしてきた被写体に常に寄り添い、
見続けて、感じてきた筆者が後の世代に遺す言葉たち。
体験したからこそ、重く、貴重だと思った。
この本の中には自身と交流のあった在日朝鮮人の友人や、
船で朝鮮に帰国するための帰国者たちの列車に乗り込み、
取材した内容なども入っていて、興味深く読んだ。
他にも「朝鮮人強制連行の記録」という本やあらゆる資料をもって、朝鮮人について書かれていた。
帰国者たちの列車の中で出会った強制連行の体験者の話を、
ひとりの日本人として聞き「肌が泡立ち、血が凍った」と、
ただの資料集にはない、筆者個人の想いとともに綴られていた。
一部印象に残った文章を引用したいと思う。
日本人の目や耳には、侵略戦争の犠牲にされた朝鮮人の慟哭や怨嗟の声はもう届かなくなり、
そのような人間的心情を“自虐史観”などと表現して片づけようとする荒廃した世相になっている。
それでも僕が、受難者たちの声を聴こうとしているのは、
日本人の良心的所在に語りかけようとしているからではない。
末期に迫った自らの旅立ちのための、一筋の明かりがほしいからなのである。
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もし政治が無法な権力を行使するならジャーナリストも
またその暴力に反撃するのを躊躇してはならない。
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あとがきで福島氏はこのようにも綴っている。
「戦争体験の継承」という言葉が戦後叫ばれてきた。
~(中略)「戦争体験の継承」という重い言葉を無前提的に容認するのは危険である。
日本人の戦争体験が加害の歴史をいっさい隠蔽し、
自己の被害者意識だけで構築された虚構だからである。
事実を隠蔽するのは歴史への冒涜であり、そのことが日本の戦後を過らせた。
このように綴り、タブー視されてきた問題にも触れ、
病気になりながらも膨大なパネルを制作し、
「戦争責任」展や「写真で見る戦後」展などの巡回展をし、
さらには文字としても遺そうと執筆をし、
自身のジャーナリストとしての責任を最後まで果たそうとしている福島菊次郎氏に
戦争が残したものは何だったのか、真のジャーナリズムとは何なのかなどを考えさせられ、
映画とはまた違う、深い感銘を受けた。
読み終えてから、この時代に日本にも稀な
素晴らしいジャーナリストが存在しているということを再確認した。
順番が逆になってしまったが、
写らなかった戦後の1、2もぜひ読もうと思う。
この本を現代の日本の若い人たちがたくさん手に取り、
右旋回していく日本に歯止めがかかればといいのにと願った1冊だった。(愛)