ある朝鮮学校の物語
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25日(日曜)から中四国・九州地方に出張しています。地方出張では、ほぼ必ず地域の朝鮮学校取材がメニューに含まれていますが、今回も北九州朝鮮初級学校と広島朝鮮初中高級学校を訪れました。
それでも、仕事で訪れた朝鮮学校の数は全体の半分にも満たないのではないでしょうか。この仕事を続けている間に、現存するすべての学校を訪れてみたい、そう思っています。
1945年以降、日本全国に数多く生まれた朝鮮学校。瀬戸内海に浮かぶ小島にもあったのをご存知でしょうか。姫路港から西南方向18kmの瀬戸内海にある家島諸島の一番西に位置する西島。かつてそこに建っていた家島朝鮮初級学校。同校は在日朝鮮人の民族教育史の中ではよく知られた存在ですが、最近の同胞の若者や日本人の中には知らない人も多いかと思われます。最近、参考文献として手に取った「朝鮮学校の戦後史 1945-1972」(金徳龍著、社会評論社、2002年、以下、同書)にも同校についての記述があったので、以下その内容を紹介します。
西島は第2次世界大戦中は日本軍の火薬庫として洞窟が掘られ、その周辺一帯は敗戦時まで民間人の立ち入りは一切禁止でした。そんな瀬戸内海の小島に人が住み始めたのは1925年のこと。石の採掘のために朝鮮人が暮らしたのが始まりだといわれています。朝鮮人が集まり一つの集落を結成し、そこに日本人も住むようになりました。戦争終結時には100戸前後の朝鮮人たちが島に暮らしていたといいます。
島の朝鮮人たちは46年、結成間もない朝聯の指導のもと、空き家の一室を「教室」にし、国語講習所として島で民族教育を始めました。47年4月、同校は「飾磨朝聯学院・家島分校」という校名で再出発。この時点で同校の教師は1人、生徒35人、修学年限は4年でした。そして翌48年10月には家島朝鮮小学校に。
同校には他の朝鮮学校では見ることのできない一つの特徴がありました。それは、島内の日本人児童たちもこの学校に通っていたということ。同書は、「おそらく在日朝鮮人の民族教育史の中で日本人生徒を受け入れ、朝鮮人生徒と同じ屋根の下で教育するという事例は同校が唯一であっただろう」と指摘しています。これは、当時、隣の本島にある学校に通う船便がなかったこと、定期便の運行が始まった後にもその運賃を払う経済的余裕がなかった、などの事情により、日本人島民からの強い要望があったからだそうです。48年時点で全校生27人中、5人が日本人児童でした。彼らには民族教科の授業は行われませんでしたが、彼らの口からは自然と朝鮮語が飛び出し、ある児童は自宅で両親を「アボジ」「オモニ」と呼んでいたとか。
49年11月、日本当局が「朝鮮学校閉鎖令」を発令、当時の文部当局がGHQ宛てに提出した報告書には同校も「閉鎖された」と記されましたが、実際は閉鎖されることなく存続したのです。当時の家島町長と朝鮮学校教育会の会長の間で話し合いがもたれた結果、教育会会長と日ごろから親睦が深かった町長の判断によって、「問い合わせがあれば閉鎖したと報告し、学校はそのまま存続させる」ということになったそうです。
朝鮮人と日本人島民のこのような協力関係は学校の運営にも反映されました。同島唯一の産業である採石業の組合に加入していた朝鮮人児童と日本人児童の保護者らは学校の運営費を捻出するために石材1トンあたり5円を自主的に学校教育会に収めていました。
総聯結成後からは同校に対する組織的な支援活動が繰り広げられました。57年以降は、朝鮮からの教育援助費が同校にも送られてくるようになりました。そして、朝鮮人島民たちは独自の力で新校舎建設のための寄金運動を展開。1年間続けられたこの運動には日本人島民も参加し、59年に校舎が新築されます。同書には、同校卒業生で、その後教鞭もとった陳英順さんが新校舎建設当時を振り返った次のような証言(97年談)が載っています。
「もうどれくらい貴重な学校ですか。どれだけの島の人間の宝ですか。こども、アボジ、オモニ、島の若い衆みんなが釘を打ってね。石拾って、耕して、花壇を作って。日本人、朝鮮人関係なく、もう全部が触った学校なんですよ…おとな、こども、若い衆、働きに来ている人夫たちまでが暗くなってもトタンにタンタンと、発電機もなかった時代にやっていったんです…」
新校舎落成後は、全島民挙げての募金運動を展開し、軽油で動く発電機を1台購入。ランプの灯りで暮らしていた当時としては相当に高価な買い物だったそうです。島の歴史で初めての電灯が朝鮮学校で灯ったのです。
瀬戸内海に浮かぶ小島の朝鮮学校の物語はさまざまなメディアで紹介されてきました。同書によると、初めて取り上げたのは総聯系の出版社である朝鮮青年社発行の月刊誌「新しい世代」(現「セセデ」)の63年12月号。ほかにも、記録映画や「朝鮮新報」、来栖良夫氏の著書(「朝鮮人学校―異国の中の民族教育」、太平出版社、1968年、「白いチョゴリの学校」、草土文化、1968年)などで同校の姿が紹介されています。
島に朝鮮人児童がいなくなったことで、家島朝鮮初級学校は1969年3月をもって廃校となります。「朝鮮学校の戦後史」は同校を扱った章を、「学校の悲喜交々の歴史の足跡は、在日朝鮮人の民族教育の歴史の中でひときわ希少で原初的な教育の原型の一つとして永く記録されるべきものである」と締めくくっています。
なぜ今回のブログでこの話を取り上げたのか。「昔はよかった」とノスタルジーに浸るためではありません。60年以上にわたる在日朝鮮人の民族教育の歴史の中で、日本各地に数多くの朝鮮学校が建てられました。統廃合され、あるいはその役目を終えてなくなった学校もたくさんありますが、現在も80校以上が運営され、子どもたちが学んでいます。民族教育とは何なのか―。そしてその未来を考えるうえでも、この間に生まれた民族教育をめぐるさまざまな事実を掘り起こし、記録し、語りついでいくことが必要なのではないでしょうか。(相)
長くなります。すみません。
僕の地元横浜にもありますね、神奈川朝鮮学園。以前、興味本位で(言い方は悪いですが)校舎を見に行った覚えがあります。校門の表札に彫られたハングルが朝鮮式で、感動したのを今でも覚えてます。それ以来、朝鮮学校というものに興味を持つようになりました。自分と同世代の子たちが、日本にある学校で朝鮮語を使ってる、という点も感動しました。彼らが自分達の民族•文化に対し誇りを持ってる(全員ではないと思いますが)点は、本当に尊敬します。同時に、自分含め我々日本人は、自分達の民族の歴史•文化•言語について、どれ程知り、どれ程誇りを持ってるだろう。そう考えると、思わずこの国を憂いてしまう。どの民族であれ、自分達の文化や歴史の素晴らしさ、また負の面について学ぶのは、とても大切だと思います。日本の学校が、それをどれだけ教えられてるのか。この国は、このまま自分の国に誇りも持たず、関心を持たずで良いのか?という事を、朝鮮学校問題について調べる度に、感じてしまいます。すみません。僕勉強不足なんで、文章に稚拙さ、教養の無さが表れてると思います。もっと勉強し、精進します!
Unknown
全然知りませんでした。
すごく理想的。
国家でなく、地域の共同体が一番大事だと思ってます。
おかみには「閉鎖した」と言っておいて存続させた強かさ。
ちょっと感激しました。
Unknown
南北を超えて日韓を超えてコリア国際学園と一緒に朝鮮学校無償化しましょう。日本市民もコリアン応援してますよ。あきらめずに市民運動を続けて。
体操での彼女たちの外交は10点万点の記事を微笑ましく見てました。演技も素晴らしいけど政治や歴史を超えて北朝鮮のホン・ウンジョンと韓国のイ・ウンジュ選手が自撮りしあう姿が素敵。素敵なリオ五輪に出会えてよかった。これでこそ平和の祭典の五輪だし南北統一も可能だななんて笑顔で見ていました。平昌五輪も北朝鮮選手が出場してこうした微笑ましい光景が見られると良いなぁ。4年って結構時間があるしそれまでに統一してくれたら嬉しいななんて思っています。