混乱の中でも灯火は消えず~vol.5-49年「学校閉鎖令」と民族教育存続の取り組み
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4.24教育闘争の翌年の1949年9月8日、連合軍司令部(GHQ)と日本政府は「団体等規正令」を適用して朝鮮学校の運営母体であった朝聯(在日本朝鮮人聯盟)を強制解散させ、10月19日の「学校閉鎖令」によって日本各地の朝鮮学校を閉鎖に追い込んだ。瀕死の状態に陥った在日朝鮮人の民族教育はしかし、その後のさまざまな取り組みによって命脈が保たれていくことになる。
写真の中の少女は語る
当局による暴力的な学校閉鎖の場面を象徴する1枚の写真がある(左ページ上)。幼い子どもたちが警官の手で教室の窓から外に放り出される姿。その表情は恐怖にゆがんでいる。場所は愛知県の守山朝鮮人初等学院、写っている2人の少女が金孝順さん(74、当時初級部5年生)と裵永愛さん(72、初級部2年生)だ。
10月19日、警官隊がトラックなどに乗り学校近くの矢田川の堤防から橋を渡って学校へ押し寄せてきた。金さんの母親、そして学校へ向かう途中だった裵さんもその姿を目撃している。周囲の道を遮断した警官隊は棍棒を振り回しながら授業中の教室に乱入。金さんは「あっという間に私たちはみんな外に追い出された。叩き割られたガラスの破片で怪我した人もいた。その後、警察は窓に板を打ち付けて校舎に立ち入れないようにした」と当時を振り返る。