【特集】朝鮮陶工の足跡を辿る
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400年以上前、豊臣秀吉による2度の朝鮮侵略(壬辰・丁酉倭乱)により、
朝鮮半島から多くの陶工が日本に連行されてきた。彼ら、そしてその末裔たちは
努力を重ね、日本の地に焼き物の文化を発展させていった。
今に栄える、薩摩焼、有田焼、伊万里焼、萩焼などがそうだ。
特別企画では、朝鮮からいかに陶工たちが連れてこられたのかを明らかにしながら、
十五代沈壽官氏に薩摩焼への思いと15代続く歴史について聞いた。
壬辰・丁酉倭乱と朝鮮陶工
李義則●陶磁史研究家
1591年国内統一を成し遂げた豊臣秀吉は、織田信長が描いたシナ(中国)征服の夢を踏襲するがごとく、「文」による官僚制国家に攻め入るため、朝鮮国に「仮途入明」(明に侵攻する倭軍[日本軍]に道をかすこと)を迫った。朝鮮国は当然その要求を拒絶した。
1592年4月12日、九番隊編成の倭軍15万8000余人の一番隊小西行長、宗義智の軍勢1万8700余人は700余隻の船に分乗して突然釜山浦に上陸。壬辰倭乱(文禄の役)の火蓋は切って落とされた。無防備だった朝鮮の国土を日本軍は野原を駆けるが如く殺戮をほしいままに北上する。国王宣祖が危機迫った漢城(ソウル)を捨てて平壌への逃避行を始めたのは4月29日のことであった。
5月漢城陥落。7月には二番隊加藤清正、鍋島直茂軍は当時の朝鮮半島北端咸鏡道まで侵攻。倭軍の釜山浦上陸からわずか3ヵ月のことである。
薩摩焼 十五代沈壽官氏に聞く
先人が築いた技術で命を伝えたい
沈家の初代・沈当吉は、1598年の豊臣秀吉による2度目の朝鮮侵略・丁酉倭乱(慶長の役)の際に多くの朝鮮人陶工と共に連行されてきた。その後、薩摩の地で薩摩焼を造り続けてきた。現在は十五代沈壽官氏が400年以上続いた窯を守る。十五代沈壽官氏に、沈家を継ぐことへの思いや窯運営のこと、民族への思いなどを聞いた。