詩の力で訴えていく
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詩空間(河津聖恵)
詩人によるブログ。1985年、現代詩手帖賞を受賞した。詩人ならではの言葉の美しさと同時に社会への鋭い洞察がある。最近では高校無償化問題に多く言及している。http://reliance.blog.eonet.jp/default/
ブログは1月から始めた。最近ではほぼ毎日の更新を心がけている。2月に朝鮮学校の高校無償化除外の問題を知ってからは、除外反対の活動に関わり始めたこともあり、この問題を中心に話題は尽きない。アクチュアルな問題のせいか、アクセス数も増えてきている。
ブログは弱者にとって重要な発信手段である。匿名で何でも言えるインターネットは、弱者へ言葉の暴力を加え、憂さを晴らすのに最適なツールだが、一方弱者もまたここでは言葉という武器で抗うことが出来る。相手が低劣な言葉を使うのなら、こちらはまっとうですぐれた言葉を駆使し、文責を明示し毅然と対峙すればいい。特に詩人は、常日頃詩作によって鍛えた言葉の力によって、むしろネットでこそ人間の魂の気高さを、臆せず怠らず指し示すべきである。三十年以上詩を書き続けてきた私自身も、そうした鋭敏で勇気ある詩人になりたいと今考えている。その思いは、今回の除外問題に関わったことでとりわけつよくなった。
ブログは1月から始めた。最近ではほぼ毎日の更新を心がけている。2月に朝鮮学校の高校無償化除外の問題を知ってからは、除外反対の活動に関わり始めたこともあり、この問題を中心に話題は尽きない。アクチュアルな問題のせいか、アクセス数も増えてきている。 ブログは弱者にとって重要な発信手段である。匿名で何でも言えるインターネットは、弱者へ言葉の暴力を加え、憂さを晴らすのに最適なツールだが、一方弱者もまたここでは言葉という武器で抗うことが出来る。相手が低劣な言葉を使うのなら、こちらはまっとうですぐれた言葉を駆使し、文責を明示し毅然と対峙すればいい。特に詩人は、常日頃詩作によって鍛えた言葉の力によって、むしろネットでこそ人間の魂の気高さを、臆せず怠らず指し示すべきである。三十年以上詩を書き続けてきた私自身も、そうした鋭敏で勇気ある詩人になりたいと今考えている。その思いは、今回の除外問題に関わったことでとりわけつよくなった。
言葉の問題としての除外問題
今回の除外問題をあらためて考えると、言葉に関わる深刻な問題であると感じざるをえない。まず朝鮮学校という朝鮮語を学ぶ大切な場を奪われかねないという、朝鮮人の側の問題として。そして日本人にとっては、母国語である日本語が日本人自身によってないがしろにされ、無惨な形で破壊されつつあるという大変な事態が見えてきた。それはネットに限らない。社会の上層からも今、自分本位に使われた空虚で差別的な日本語が、人を分断するためにためらいもなく次々と放たれている。
2月25日鳩山首相が述べた言葉に、私は深い嫌悪感を抱いた。例えば「朝鮮学校がどういうことを教えているのか、必ずしも見えない」などいう発言は、まさに日本語に特徴的な婉曲表現の悪用だ。首相はそれを、他者を傷つけると分かっていながら、それを自分自身(あるいは日本人側)には意識化させないために使っている。曖昧であるがゆえに抑圧的な日本語の典型的な例である。そうした日本語の負の側面に抗うために詩を書いているつもりの私は、詩人としての魂をいわば逆撫でされた。その後新聞の一部が非人間的で差別的な言辞で、ネットを中心とした不安定な言論の場を煽りだした異常事態には、心底危機感を抱いた。そうした危険な言語状況を訴えるために日に何度もブログを更新していたが、3月4日に橋下大阪府知事のトップダウンでの差別発言を知ってからは、詩人として人間として、私なりに責任を持って対峙しなくてはと心を固めた。するとブログから私の思いを汲み取った詩人が、友人たちに声をかけてくれ、ただちに抗議のための緊急集会が開かれ、詩人たちでアピールを採択できた。当面の除外が決定されてからは、リーフレットを作成し文科省に届けた。在日朝鮮人である詩人が行った「一人無声デモ」も支援した。また私は街頭に立って訴えた。すべては詩人たちにとって初めての経験だった。
「社会カナリヤ」として関わりつづける
朝鮮学校を無償化の対象から外すことは、教育の平等や人権の尊重の観点からあってはならない暴挙である。その上で詩人として私が危惧するのは、朝鮮学校を無償化から除外させようと画策する人々が、(権力者であれネット右翼であれ風評に惑わされる市民であれ)みな、ただ自分の憂さを晴らしたい、他者に恥をかかせたいという欲望のままに、安易で世俗的な言辞を繰り返しているという事実である。かれらの言葉には現実や真実との照応関係はない。心の葛藤など一切ない。もちろん、ただ正しく美しい日本語を使えばいいというのではなく、私が震撼とするのは、現在この日本で愛国心は喧伝されても、その基となる母国語としての日本語への敬意がほとんど見当たらないということなのだ。日本語への敬意とは、他者の言葉に耳を澄まし、文化や思想や詩心の素晴らしさを感じ取る謙虚な感受性を意味するが、現在ネットやメディアを席巻しつつあるのは、そうした感受性を抹殺する、傲慢で低劣な日本語の「絶対君主」たちである。こうした状況が続けば、これまでこの国に生きてきた人々の文化的努力や、そこにこめられた理想や未来への思いは、存在しなかったも同然になってしまう。
朝鮮学校除外の問題が、言葉の問題として深刻であるかぎり、「社会カナリヤ」として関わりつづけていきたい。この問題で明らかになった日本人の言語と精神の状況の悲惨さを踏まえ、これからも除外の理不尽さを、詩の力で訴えていかなくてはならないと思う。本来詩とは、苦しむ他者に寄り添うために、詩人が骨身を削り研ぎ澄ましていく言葉であるはずだから。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:詩のイベントや自分の仕事の宣伝になればいいと思って。だが、自分自身を含め、社会で声をあげられない者のために発信したいという気持ちも、どこかにたしかにあった。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:言葉が人と人を分断するものではなく、結びつけるものであること。言葉と魂は不可分であること。すぐれた日本は、心すぐれた言葉からしか生まれないこと。 Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください |