始まりのウリハッキョ編vol.13 今も変わらない、 民族教育への思い~群馬同胞社会と民族教育
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2015年に創立55周年を迎えた群馬朝鮮初中級学校。これまで1093人が卒業し、3世代の同胞が通う伝統ある学校だ。そんな群馬初中と、群馬での民族教育にまつわるさまざまな物語を集めてみた。話を聞かせてくれたのは同校の安重根校長(69)、群馬初中・初級部2期卒業生の廉数昭さん(66)と朴徳栄さん(66)の3人。
県をまたぎ北関東ハッキョへ
群馬県に朝鮮学校が創立されたのは1960年9月1日。それまで県下同胞たちは、57年に設立された、栃木県足利市にある足利朝鮮初級学校(当時、59年に中級部を併設し、北関東朝鮮初中級学校に改称)に県をまたいで通っていたという。
地元が群馬県高崎市にあった朴徳栄さんは小学4年生まで日本学校に通ったが、その2学期から朝鮮学校へ進学することを勧められ、北関東初中へ通った。
「1959年だから、ちょうど祖国への帰国船が出る直前の時期で、群馬でも子どもたちに民族教育を受けさせなければということになったんでしょう」と安重根校長。朴さんは、「そうそう。小4の夏休みの期間に北関東初中に集まって、まずは아야어여(アヤオヨ)を習った。そして2学期から、自分も含めて20人くらいが一気に北関東初中に通うようになったんだよ」と懐かしそうに振り返る。「朝は6時半の汽車で1時間半かけて通学。冬の朝なんかは暗くてまだ月が出ているし、夕方もすぐ暗くなるから高崎に帰ってくるとまた月さ。で、もう寝ないとね。次の日も早いし」(朴さん)。
隣の県に通い民族教育を受ける子どもたちの姿を見た保護者や群馬同胞たちは、やはり県内の朝鮮学校を強く望むように。そうしてちょうど1年後の60年、高崎にも群馬朝鮮初級学校(当時、中級部は64年に併設)が建てられた。朴さんは初級部5年の2学期から地元の朝鮮学校へ。この頃に九州から群馬へ引っ越してきた廉数昭さんも群馬初級で学んだ。
「高崎駅からハッキョまでは歩いて5分くらい。毎週、上野から新潟へ向かう『帰国専用列車』が通ってね―祖国に帰る在日朝鮮人たちのための列車が国鉄から出ていたんだよ。その途中に高崎駅もあったから、土曜日になると駅まで出て同胞たちを見送りに行ったもんだ。もちろん群馬から乗り込む人もいた」と楽しそうに話す廉さん。
廉さんが群馬初級を卒業した62年にはまだ県内に中級部がなかったため、北関東初中の中級部へ進学。同級生の朴さんも同様で、再び北関東初中に通うことになった。
「その頃は、高崎から足利までの定期が月に2230円。うちのオモニが1ヵ月働いた給料が3000円とかそれくらい。中級部2年の時に各種学校の認可が下りて大人830円になったんだけど、それでも日本の学生に比べたらまだ高かったからね」(廉さん)。
県内に中級部がなかった60年~64年の間に、群馬から北関東初中へ通う子どもたちは他にも多くいた。中でも草津地方の同胞の子どもたちを自宅に居候させ、北関東初中へ通わせたという李末仙さん(77)の話が印象的だ。
「草津は、電車もなければバスもない、山の奥の方。いま車で行こうと思っても、前橋から2時間以上かかる場所ですよ。だから当時、群馬からも北関東初中に通わせようと言っても、草津からなんて到底通うことはできなかった」と安校長は話す。
当時、そこで一役買って出たのが女性同盟の活動をしていた李さんだ。自ら車に乗って草津へ出向き、同胞の子どもたちを探して前橋の自宅まで連れて帰った。夫と自身の子ども4人に加え、3人の子どもたちを迎え入れ、多い時は9人で生活したという。
中級部設立、通学バスに
1964年、県内に待望の中級部が設立されると同時に寄宿舎も建設。…