消えゆく苦難の歴史の風景/京都・ウトロ地区のいま
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京都府宇治市伊勢田町51番地―。在日朝鮮人集住地区・ウトロの風景が変わろうとしている。1980年代末から立ち退き問題に揺れたウトロ地区では、最高裁での住民側敗訴から紆余曲折を経て土地問題が決着。日本政府、京都府、宇治市が公的住宅などを作る「ウトロ町づくり」事業が今年6月下旬から本格的に始まった。
なぜウトロに住むようになったのか
近鉄京都線の伊勢田駅から西へ約700メートルに位置するウトロ地区は、1940年ごろから国策で進められた軍用飛行場の建設のために雇用された朝鮮人労働者らの飯場が建設された地区だ。太平洋戦争が終わり、飛行場建設は中止となったが、さまざまな理由により朝鮮人労働者やその家族らが帰国せず住み続けてきたことで居住区が形成された。ウトロという呼び方は、宇治へつながる地を意味する「宇土口(ウトグチ)」という地名の「口」(くち)がいつのまにか「ロ」(ろ)と読まれるようになったことから来ている。
戦後、ウトロ地区は国策会社を引き継いだ日産車体の所有地となり、長い間、劣悪な環境のまま放置された。住民たちは下水道もない暮らしを余儀なくされた。
80年代後半、ウトロの土地は当事者である住民のあずかり知らぬところで日産車体から個人、西日本殖産と転売されていった。89年、西日本殖産が住民に対して土地明け渡し訴訟を提起したため、住民は強制立ち退きの危機に瀕した。約10年におよぶ裁判の末、2000年には最高裁で住民全員の立ち退きを命じる判決が確定した。