「依存する女、逃げる女、待つ女」
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ねごろのぷくぷく日記3(根来祐)
発信者は映像作家。映像制作を進めるとともに市民メディアセンターで映像制作ワークショップなどの活動を行っている。キャバクラユニオン問題などについて発信している。http://d.hatena.ne.jp/negorin/
女性が男性に支配されるととても楽だ。既存のシステムを変える必要がない。若いうちはそれらしくしていれば、「ここに座るといいよ」とエスコートされストンとそこに座っていればいい。可愛がられ、チヤホヤされ、庇護される。
そして支配されることを「愛情」だと信じれば、当面の生活の不安からは解消されるかもしれない。
私自身の中にそういった面がある。正直私の中には「男に支配される事」を愛情と信じたい面が、おそらくある。
その話はちょっとおいて置いて、すこし苦い思い出について語る。
私には大切な女友達がいた。
彼女は若く、無邪気で、クリエイティブでエネルギーにあふれた人だった。彼女はすばらしい絵を描いたし、それを私にプレゼントしてくれたこともある。今でもその絵は私の仕事用のデスクに飾ってある。
彼女とよく遊んだし、語り合った。美しい人だった。彼女が多くの男性にモテモテな事もなんだかうれしかったし、私はそれをほほえましく見つめていた。
でも、だんだん雲行きが怪しくなってきた。彼女に特定のパートナーが現れたのだ。
その男は表向きは紳士的で、事業にも成功している男性だったが、とても暴力的で支配的だった。自分のコンプレックスを彼女をコントロールすることで解消している嫌な男だった。自尊心が低い女性であることをわかってターゲットにしているのが見えた。
彼女は明らかに家族との間にトラウマがあって、親密さに飢えていた。その支配とコントロールはある意味そのときの彼女には必要なものだったのかもしれず、それについて私は深く介入することをあきらめていた。
彼女は彼と遠いところに行ってしまった。その後彼女からは連絡はなかった。東京の友人と完全に通信を断った様だった。「どこの馬の骨」とも知らない男にさらわれた気分だった。悲しくて、つらくて、泣いた。
でも私に何が言えたか? 「そんなつまんない男ととっとと別れろ」と言えるのか? もしも私がマッチョな男だったら「そんなヤツと別れて俺と付き合えよ」って言っただろうか? でももしも私が男でそんな台詞を言ったとしても果たして彼女にとって革命的な変化が訪れるのか?
答えはノーだ。男なんかで女は変わらない。かけてもいい。本人がかわりたいと思わなけば。
最近ある女性から言われた。「なんで男と一緒に運動をやるのか?」と。
女として自立し、独立して振舞えないことにイラつかれている様だった。誤解を承知で言うならば、私は男と一緒に何かをやっていれば安心だったんだと思う。庇護されたり、教育されたり、啓蒙されたりすることをどこかで許容していたし、そうされることを望んでいる面もあった。
そう、それは私がかつての友人である彼女に対して抱いた苛立ちと似たものだったかもしれない。
経済的に、精神的に自立できている女性が、そうでない女性に対して何かをいいたい気持ちはわかるが、でもどうにもならない時があるのも、また真実。
本人がそこから自立したい、逃げたい、自分の言葉を持ちたいと思う時は、その人に必要なタイミングでしか訪れないのかもしれない。大きな事件や挫折や痛みが起こったときに、本人がおのずとそこから逃げるのだと思う。
それを無視して「共依存」「情緒不安定」「甘えた女」「嫌なら逃げればよかった」などの言葉をぶつけるのはたぶん暴力なのだと思うし、女性の間で分断が起こってしまう。それは元を正せば男性優位社会にとってもとても都合のいい「内ゲバ」になってしまう。
悪いのは勇気を出せない女性の問題では無い。そういったシステムを補完し享受している側の問題だ。
このコラムを書いている今も、彼女の描いた絵を見つめながら、遠くから思う。
どうぞ彼女が幸せでありますように。
そして私は彼女を待つ。そうである多くの女性を待つ。
そして、私自身の中にある彼女と同じような部分が変化してゆくことを日々見つめている。
イオ編集部より3つの質問Q1:ブログを始められた動機は? A:自分をふりかえる為、備忘録としてつけはじめました。 Q2:ブログを通して一貫して訴えたいことは? A:ぼちぼちやっていきましょう! Q3:お薦めのブログがあれば紹介してください |