1世の踊りに釘付けになった/始まりのウリハッキョ編vol.38 朝鮮舞踊サークル
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朝鮮学校には多くの学校に朝鮮舞踊のサークルがあり、民族の心をはぐくむ大切な空間となっている。今でこそ舞踊を教える人は増えたが、草創期には一握りの1世だけ。その1世から、むさぼるように民族の踊りを習い、2世、3世たちに伝えた人たちがいた。
1世舞踊家・金長安
約70年前の1949年、当時、中学生だった任秋子(82)は日比谷公会堂で1世の舞踊家・金長安の踊りに釘付けになっていた。
「祖国解放の記念日を祝う大会で、金先生の独舞を見ました。植民地時代、朝鮮人は数々の抑圧を受けて苦労して生きてきたのに、解放された今はどれほど幸せだろうかという歓喜の舞。あまりに感動し涙を流していました。舞台裏に行き、『先生のような方から習いたい。私の学校に舞踊を教えにきてほしい』と頼んだのです」。植民地時代、自らの文化を根こそぎ奪われた朝鮮民族。民族の踊りとは、自身を解放し追い求める営みで、任にとってもまぎれもなく朝鮮舞踊はそれだった。
10歳から石井漠舞踊研究所でモダンバレエを習っていた在日2世の任は、49年に東京朝鮮中高級学校に舞踊部を作った中心人物だ。「今食堂がある場所、そこに音楽堂があり、舞踊部の練習場でした。『白頭山』という壁新聞に募集記事を出すと音楽堂の前には長蛇の列ができてね。金長安先生は江口・宮舞踊研究所で培ったモダンの基礎に朝鮮的なものを入れて踊りを作ってくれた。卒業公演では独舞を創作してもらった幸せ者です」。
任は東京朝高を卒業後、踊りの道に進む。朝鮮舞踊をさらに極めようと、1世の舞踊家・趙沢元に師事。崔承喜とともに活動していた趙はフランス、英国などで公演していたプロの舞踊家で、剣、ショール、お面の踊りに農楽など、基礎から古典舞踊の数々を習ったという。やがて趙は任の実力を認め、任をフランス公演に連れていきたいと言った。「フランスといえば芸術家の憧れでしょ。すごく行きたかった。ただ外国人登録が『朝鮮』だったので、『韓国』に変えるようアボジを説得すると言われました。ところが、父は先生が何時間話してもテコでも動かない。父には『民族を売るような舞踊なら辞めてしまえ』と激しく叱られた。この言葉に目が覚めたんです」
転機だった。「自分と秋子は違う。教えることは教えた。行くべき道を行けと、先生は背中を押してくれた」。
弱冠21歳にして、任は自身の舞踊研究所を東京・代々木に開く。当時、朝鮮舞踊研究所は希少だった。李美南、金永愛、任善喜らが門をくぐり、在日朝鮮中央芸術団(55年創設、現在の金剛山歌劇団)へと巣立っていった。任自身も研究所を発展的に解散し、芸術団へ。舞踊部長の重責を担うことになった…。(続きは月刊イオ2018年8月号に掲載)