始まりのウリハッキョ編 生活の“中”にあったウリハッキョ vol.46 「金平団地」と朝鮮学校
広告
1960年代、福岡には行政による区画整理のため、生活していた場所から立ち退きを強要された在日朝鮮人たちがいた。代わりの住まいとして、たくさんの長屋で形成された「金平団地」(福岡市東区、現正式名称は浜松住宅)には多くの同胞が集まって暮らした。団地の敷地内には公園や銭湯のほか、市内から移された福岡朝鮮初級学校も存在した。
河川敷での住まい
1945年の祖国解放後、日本各地の港町は、日本の植民地支配から解き放たれ、いち早く故郷へ帰ろうとする朝鮮人で溢れた。博多港にも数多くの朝鮮人が集まり、船を待つあいだに御笠川(地元では石堂川とも呼ばれる)の河川敷にバラックを建てたが、朝鮮半島の情勢悪化によって帰還が停止すると次第にそこが本格的な生活の拠点になっていった。
御笠川から近くの道路に立つ電柱には、「…昭和三〇年代まで、巨大な難民キャンプの様相を呈していた。この石堂川を挟んで西岸に韓国系、東岸は北朝鮮系の人々と、一応の棲分けがあった」と、当時を記した説明が貼られている。
不便な環境の中、どうにか生活が定着したものの、1960年代になると移転の話が持ち上がった。書籍『九州のなかの朝鮮―歩いて知る朝鮮と日本の歴史』には、「行政側の理由は『道路拡張および湾岸整備』で、町の景観、河川の汚濁、環境衛生、防災などを問題視していた」とある。
「金平団地」で育った李哲和さん(56)は、親世代の同胞に「行政から〝火付け人〟が来て家が燃やされた」という話を聞いたと話す。前述の書籍では、48年に福岡県が要請して進駐軍がブルドーザーで河川敷のバラックを壊した事実も記されている。このような行政側の一方的な強制排除に対抗し、住民側は住宅組合を発足して移転に関する交渉を重ねていった。
移転先に決まったのが大字金平。そこに建てられた団地ということで「金平団地」と呼ばれた。住民たちは62年に河川敷のバラック群を立ち退き、団地へ入居した。「約30棟・200件以上の長屋があり、1500人くらいが移住させられたと聞いた」(李哲和さん)。はじめにあったのは3畳ほどのコンクリート製の建物のみ。しかし、あまりにも狭いため同胞たちが木材をかき集めて木製の建物を隣にくっつけ、住居を拡張した。