ヘイトスピーチがゼロになる日まで(神奈川新聞記者・石橋 学)
広告
在日コリアンを罵るヘイトスピーチが日本各地で増えるなか、その闘いの最前線といえる川崎で差別根絶に向けて闘う記者がいる。隣人を「死ね」「殺せ」とまで言い放つ日本社会で、人々が共に暮らすことなどできないと愚直に取材を続けている。
文・写真:張慧純
神奈川新聞記者
石橋 学さん
いしばし・がく
1971年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部卒業後、94年に神奈川新聞入社。報道部などを経て2018年から川崎総局編集委員。共著に「ヘイトデモをとめた街 川崎・桜本の人びと」「時代の正体 権力はかくも暴走する」(現代思潮新社)、「根絶!ヘイトとの闘い 共生の街・川崎から」(緑風出版)など。
ヘイトスピーチがゼロになる日まで
―かつては、外国人施策においては日本全国で先頭を切っていた川崎市でヘイトスピーチ、ヘイトデモが繰り返されています。
2013年5月以降、川崎では14回ものヘイトデモが続いてきました。差別主義者たちは、戦後に外国人とともに暮らす街作りを進めてきた桜本でもデモを強行し、住民たちに大きな傷を与えました。約1000人のカウンターがデモ隊の行く手を阻みましたが、今でも極右政治団体「日本第一党」(党首・桜井誠)による集会や街宣は続いており、彼らは差別と憎悪の扇動をやめていません。
記者になったのが1994年。神奈川県警でサツ回りをした後、2年目から川崎の担当に配属されました。川崎市では98年に外国人市民代表者会議ができ、政令指定都市で初めて一般職の採用試験で国籍条項が撤廃されるという大きなニュースもありました。外国人市民の権利保障の機運は高まり、次はいよいよ地方参政権だという声が出てくるほどでした。
しかし90年代後半から始まったバックラッシュにより、ヘイトスピーチが頻発する土壌ができてしまった。後に「死ね、殺せ」とエスカレートしていきましたが、当初のヘイトデモで言われていたことは、在日コリアン高齢者への福祉手当給付金は闇年金だ、行政が朝鮮人を採用しているのは憲法違反だという錯誤と悪意に満ちたものでした。
人種差別団体「在日特権を許さない市民の会(在特会)」は、名称自体が差別的ですが、彼らは市の人権施策を批判するという手口でコリアンを攻撃しています。在特会の後継組織で、実態は差別扇動団体に他ならない日本第一党も、今春の統一地方選で候補者を全国に14人擁立し、「選挙活動」を偽装したヘイト活動を行おうとしています。川崎でも、市が進める差別撤廃条例の制定阻止を掲げ、支援する候補者の当選を目指すと宣言している。マイノリティの尊厳をおとしめ、地域社会を分断する言動を、さもまっとうな「言論の自由」や「政治活動」であるかのように語るさまは卑劣で醜悪極まりない。それがまかり通る社会も同様に醜悪です。
―なぜ、ヘイトスピーチによって憎悪が拡散されるようになってしまったのでしょうか?
直接的には2012年末の第2次安倍政権の発足が原因だと考えています。街中を公然と練り歩くヘイトデモは13年春先から日本各地で頻発するようになります。しかし、安倍政権の発足は単なる引き金で、根本的には戦後の日本社会のありようが問題だった。植民地支配の歴史の責任に向き合い、反省するどころか、戦後も朝鮮人への差別を温存した社会の行き着く先が「安倍政権の誕生」だったのです。
米国ではトランプ政権発足後、勢いづいた白人至上主義者が17年8月、ヴァージニア州のシャーロッツビルで大規模な集会を開き、差別に抗議する人が差別主義者の車にひき殺されるというヘイトクライムが起きました。州知事はすぐさま声明を発表し、「お前たちの居場所はここにはない。帰れ」と差別主義者たちを強い口調で非難しました。これこそが公人のあるべき姿。しかし、日本にはメディアも含めて社会全体に「差別は絶対悪だ」という社会規範がありません。「一方的に断罪し、闘ってなくしていくべきものだ」という認識が決定的に欠けています。
日本には人種差別を禁止する法律がありません。16年に成立したヘイトスピーチ解消法は禁止規定も罰則もなく、実効性に乏しい。だから、まずは差別を明確に禁じ、断罪する法律や条例を作る必要があります。社会規範となるルール作りから始めなければならないのです。川崎市では「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」を中心に、刑事罰を盛り込んだ人種差別撤廃条例を求める運動が続けられています。カウンターや当事者が体を張って抗議の現場に立つのではなく、本来は行政が施策としてヘイトをなくしていかなければなりません。それは国連・人種差別撤廃条約に加入している日本政府や自治体の義務であり、とりわけ被害の現場となっている自治体は市民の尊厳と安全を守るため、国に先んじて条例を作っていくことが求められています。
〝公器〟であるメディアの使命
―白昼堂々「朝鮮人をたたき出せ」「ぶち殺せ」と叫ぶヘイトスピーチの取材を続けながら、「あんなひどいことを言っている人はどんな人たちか」と尋ねられるとき、「私たちです」と答え、ヘイトスピーチが蔓延してしまった一因は、差別と向き合おうとしないメディアの「だめさ加減」があったからだと振り返っていますね。
メディアの「だめさ加減」に気づかせてくれたのはカウンターの人たちでした。13年5月12日、川崎で最初のヘイトデモを取材した時のこと。カウンターの人たちが掲げる横断幕には、在特会の当時会長だった桜井誠氏のイラスト入りで「ヘイト豚、死ね」と書いてありました。私が「抗議していることはよくわかりますが、乱暴な言葉では共感を得られないのでは?」と水を向けると「では、あなた方マスコミはどんな記事を書き、共感を得てきたというのか」「日本人同士のののしり合いと、マイノリティに対する死ねという差別をいっしょくたにする『どっちもどっち』という態度は、傍観しているのと同じではないのか」と問い返されました。
その通りだと思いました。京都朝鮮第一初級学校襲撃事件は09年に起きていますが、メディアは在特会を非難しなかった。私の脳裏にも条件反射のようによぎった、下手に取り上げたら彼らの主張を広めることになる、抗議を受けて面倒なことになる、といった「記事を書かない言い訳」こそはメディアの怠惰に他なりませんでした。決まって持ち出される「表現の自由」や「中立」は「もめ事」を避けるための方便に過ぎません。結果、在日コリアンへの差別の根っこにある植民地主義の発露としての歴史修正主義の横行にも、きちんと対抗できずにいます。
―マイノリティの思いを丁寧にすくったルポやインタビューもたくさん書かれています。誰に向けて記事を書いていますか?
差別を放置し、加担していた「かつての自分」に届けたいという思いがあります。差別主義者に名指しで攻撃されている人たちは、「いつか本当に殺される」という恐怖まで抱き、変装しなければ街に出られないほど日常を脅かされている。それでも二次被害を承知で「当事者にしか伝えられることがある」と踏ん張っている。
メディアは大いに反省すべきです。私たちが「他人事」のような伝え方しかしてこなかったから、「新しい傍観者」を生むことしかできなかった。かたやカウンターの人たちは、その行動で社会のあるべき正義を示してきた。それは本来、公器であるメディアがやるべき仕事です。差別を非難する口火を切る。差別主義者の攻撃の矢面に立つ―。自ら実践してこそ、差別の根絶を呼び掛け、行政に対策を求める記事を説得力を持って書けると思うのです。
このことは、桜本の子どもたちに教わりました。自分たちの街を標的にしたヘイトデモの予告に「なんであんなやつらが来るんだ。オレらがぶっ飛ばしてやる」とストレートに怒りを表現する姿に背筋が伸びました。「ルールがないなら、ルールを作ってよ。大人、何やってんだよ」という言葉にはっとさせられました。桜本の公立小中学校では人権尊重教育が積みあげられ、ヘイトとは対極の「違いこそ豊かさ」との価値観が根付いている。運動会でプンムルを踊る素晴らしい世界がある。1世のハルモニたちがキムチ漬けを教え、そこに朝鮮学校の子どもたちも来る。川崎市ふれあい館職員の崔江以子さんがよく話すことですが、差別をともになくす「仲間」を増やしていきたい。
2019年も川崎がヘイトとの闘いの最前線になります。川崎市では20年3月を目標に差別撤廃条例の制定作業が進んでいます。それを阻止しようと政治の舞台にまで立とうとする差別主義者の悪辣さと被害の深刻さを伝え、実効性のある条例を後押しする。地元紙の記者である私の使命だと思っています。
2018年が暮れていく12月末、石橋学さんは、朝鮮半島に訪れた平和の兆しを歓迎しないどころか足を引っ張り、憎悪をさらに膨らませるという「日本の醜悪な自画像」を見つめなければとの思いで、南北首脳会談をめぐる一本の記事を書いた。
朝鮮を「あまりに知らなかった」と話す。プロ野球のナイター中継を見ていた家族だんらんのひと時、打席に立つ張本勲を指して父は10歳の石橋少年に言った。「絶対に打つぞ。朝鮮人だから八百長してるんだ」。リベラルだったわが父すらも偏見に敵意を重ねる。このまなざしこそ、この社会に受け継がれてきた朝鮮観だと感じている。
駆け出しの頃、朝鮮人部落・池上町に暮らす1世の尹乙植さん宅に取材に行った。年金制度からはじかれた外国人高齢者の福祉給付金を増額するよう求める運動が起きていた最中。「身構える私に、尹さんは穏やかに訥々と話をしてくれた。お連れ合いが兵隊として南方に行ったのに、戦後日本の国から何の保障もない。日本人と同じ苦労をしたのだから、せめて日本人と同じようにしてほしいと…。しかし、民族差別という苦労が日本人と同じであるはずがない。当然の権利としての福祉も、日本人以上であるべきだ」と心に思った。
「ご飯食べたのか。食べていきなさい」と焼き鮭と味噌汁とキムチをご馳走になったと、20年以上前の現場を思い起こす顔がほころぶ。神奈川の在日コリアンが絶大な期待を寄せる記者が、在日朝鮮人に向き合った初めての取材だった。