崔承喜
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6月号では朝鮮半島から日本に連なる朝鮮舞踊の歴史を色々と調べたのですが、朝鮮舞踊の発展に大きな足跡をのこした崔承喜(1911~69)という女性には興味が沸きました。崔は日本でも活躍したのち、世界各地でも公演し、朝鮮解放後は現在の朝鮮民主主義人民共和国に戻り、現代朝鮮舞踊の基礎を作り上げた人です。
来年生誕100周年を迎える崔は、植民地時の1926年にソウルで石井漠舞踊団のソウル公演を観たことを機に渡日します。当時、舞踊はキセンがするものと、崔が在学した学校では除名処分も検討したといいます。35年に石井から独立し、24歳で崔承喜舞踊研究所を設立した崔は、翌年36年末から1年間アメリカに滞在し、37年末にはサンフランシスコ公演、38年1月にはロス公演を成功させます。崔の活躍を活写した「世紀の美人舞踊家 崔承喜」(高嶋雄三郎・鄭浩編著、エムティ出版、1994)にはこう記されています。「当時、ニューヨークで活躍していた代表的な舞踊家としては、バレルス、ウディー・シャンカ、ヨズバレーの三人がいた。崔承喜はアジアの人間として、中国の梅蘭芳、インドのウディー・シャンカとともに世界的な舞踊として認定された」――。
39年にはパリ、ジュネーブ、ローマ、ミラノ、南ドイツ、オランダ、40年にはブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、ペルー、チリ、コロンビアと公演の翼は大きく広がります。
モダンやバレエなど、西洋の踊りも摂取した崔でしたが、それには価値を見出せず、結果的には徹底して朝鮮の民族的な踊りにこだわったと、彼女の元で学んだ朝鮮の弟子たちは語ったといいます。崔は、宮中舞踊、芸人集団が踊っていた舞踊、ムーダンの踊りなど、当時の朝鮮の踊りから民族的な色彩の濃い춤가락(踊りの動作)を選び、朝鮮舞踊基本動作をまとめ上げるという、大きな仕事を達成しました。この仕事あって、日本で朝鮮舞踊を学んだ私たちもその恩恵を受け、朝鮮舞踊をいちから学べたわけですね。
「私は、舞踊に貧しい朝鮮、しかも自分たちの舞踊の遺産さえも継承していくことのできない朝鮮に生まれた私は、郷土の芸術を新しく再建して行きたいと努力しています。一番苦しかったのは昭和4年(1929年)京城に帰った時の3年間です。でもこの3年間は、私に大きな教訓となった試練の月日です。自分でさえ舞踊を放擲しなければならないかとさえ考えたことがある。涙を流してその場に、倒れてしまったことさえあるのですが、然し今となってはそれらの苦しみも皆、幸福な夢のようです」(崔承喜談、上記の本から)
「世紀の美人舞踊家 崔承喜」には舞踊家・崔承喜が踊る姿がふんだんに盛り込まれていますが、その踊りは型破りで、時には幻想的でもあり、さまざまな表情を見せてくれます。朝鮮舞踊が新鮮な姿で迫ってきます。
歌舞伎など、日本の伝統芸能もそうでしょうが、人間の身体をもって伝えていく文化は並大抵の努力では伝授できないものでしょう。崔と彼女を支えた舞踊人たち(朝鮮人、日本人を問わず)の生き様からは、「日本の植民地支配」という朝鮮民族にとっての不遇な時代をどうにか乗り越えようと言う覚悟、気概、また舞踊への愛情と、泉のように湧き出る創造性が伝わってきます。
今でも、朝鮮では彼女の愛弟子が第一線で活躍し、金剛山歌劇団をはじめ、在日同胞に朝鮮舞踊の手ほどきをしてくれています。こうした事実からも、日本と朝鮮を結んだ舞踊家として崔を身近に感じています。(瑛)
チェ スンヒに感動
昔2002年テレビ番組で世紀の舞姫 崔承喜
を観ました、そこでチェスンヒが中国に居た時
踊りの基本を中国人に教え 現代の中国舞踊の基礎になったと聞き感動をした記憶が有ります。
昔、日比谷公会堂で
私の母は80近い2世ですが、日比谷公会堂での彼女の公演をみたそうです。そのときの感動を今も忘れられないと言っています。
彼女の抱いていた火種は今も私たちの心に行き続けています。