長崎出張―その2―
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今日はブログの担当の日ではないですが、せっかく長崎県まで会社のお金で行ってきたのに、その内容全部を月刊イオの誌面では書ききれないので、今日もアップし、ブログで書きたいと思います。
まず、昨日のブログで書き忘れたことですが、軍艦島と高島にあった炭鉱は三菱のものでした。長崎港には巨大な三菱の造船所があり、ここでも朝鮮人が強制労働させられていました。また、長崎には当時、兵器工場など三菱関連の施設があり、そこでも朝鮮人が働かされていました。昔も今も、長崎の産業において三菱は巨大な位置を占めています。愛知県の豊田市におけるトヨタのような感じでしょうか。
軍艦島での朝鮮人強制労働の実態についてですが、1983年に軍艦島での「火葬認許証下附申請書」(通称・端島資料)が発見されることにより、より明確になりました。これは、1925年から1945年までの21年間に軍艦島で死亡した人(日本人、朝鮮人、中国人)の記録で、21年間に死亡した日本人は1162人、朝鮮人は122人、中国人は15人となっています。ここでは、これ以上、詳しいことは書きません。
では、今日のブログです。
軍艦島クルーズから戻ってきた後、その足で、長崎原爆資料館や平和公園など原爆に関連する場所に行ってきた。35年ぶりの訪問だった。
その一帯はいろんなモニュメントが点在しているが、目的はただ一つで、「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」をぜひ見たいと思っていたのである。35年まえにはなかったものだ。平和公園に着いて観光用の案内図を見たのだが、追悼碑の場所が記されていなかった。しかたなく、ボランティアでガイドをしているおじさんに訊くと、「原爆落下中心地公園の奥のトイレの横にあるよ」と教えてくれた。
行ってみると確かにあり(写真)、花束や千羽鶴も供えてあった。なぜか大極旗も供えてあった。
この慰霊碑が建立されたのが1979年。長崎在日朝鮮人の人権を守る会の代表だった、故・岡正治さんらが尽力して建てたものだ。慰霊碑のすぐ横には、帰国事業の記念碑もあった。
長崎在日朝鮮人の人権を守る会(守る会)は1965年に結成され、原爆被害にあったり強制労働被害にあった朝鮮人の実態調査とその補償のための運動をずっと続けてきている。現在、長崎市に「岡まさはる記念 長崎平和資料館」という資料館があり、植民地支配や南京大虐殺など日本の過去の国家犯罪についての資料を展示しているが、この資料館を運営しているのも守る会。上に紹介した端島資料を発見し、綿密に分析して報告書を作成したのも守る会である。守る会と資料館については、次の次くらいのブログで書きたいと思う。
守る会の調査によると、1945年当時、長崎県にいた朝鮮人は7万2500人ほどだと推定され、被爆者数は約2万人、そのうち死亡者数は約1万人だと推定されている。
私が慰霊碑を訪ねたときにも、韓国からの旅行者が何人か来ていた。花束や大極旗はそういった旅行者が供えていったものだろう。
次の約束までに時間があったので、慰霊碑のすぐ上にある(長崎市は坂が多くて、上になる)、長崎原爆資料館を見学した。入館料は200円。500円以上だったら入らなかっただろう。
35年前にも見学しているが、建物はまったく建てかえられていて奇麗になっていた。展示物の内容はあまり記憶になかったが、35年前もっとも衝撃を受けた展示物がなくなっているのにはすぐに気がついた。原爆の影響で「奇形」になった胎児のホルマリン漬けの展示物だ。全体的にも、35年前はもっと強烈な印象を受けたが、それは若かったからなのかも知れない。
その2日後、守る会の代表の高實康稔さんが長崎原爆資料館のことを「ただ、『原爆が悲惨だ』と言っているだけ。日本がどのようなことをしたのかについて何も語っていない」と評していたが、確かに、「原爆がいかに大きな被害をもたらしたのか」ということに展示の比重が偏っており、「1945年8月9日」から広がりがあまりない展示内容だった。また、植民地支配により日本に来ることを余儀なくされ被爆した朝鮮人に関する展示も非常に少なかった。―明日につづく―(k)
Unknown
韓国の人工衛星打ち上げ、またも失敗。
共和国の光明星打ち上げは本当にすごい!とつくづく思います。
Unknown
コメント、ありがとうございます。
共和国の科学技術はけっこう高いんですね。