戦後補償問題
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2週間前の話になりますが、出張で京都に行った際、同志社大学で行われたシンポジウムに参加しました。
「女性・戦争・人権」学会が主催する、
「『女性国際戦犯法廷』10年を迎えて―ハーグ判決実現に向けた課題と展望」というシンポジウムで、
日本軍「慰安婦」問題をめぐる数々の発表がありました。
私が印象深かったのは、立命館大学のある先生の、「従軍慰安婦」訴訟が問うたもの、という発表です。
戦後補償訴訟において、
「国家無答責の法理(~戦前は、国家の権力作用により私人に損害が発生しても、国が責任を負う根拠条文がなかったというもの)」、
「除斥期間(~時の経過により不法行為に基づく損害賠償請求権が消滅する)」
という理由をふりかざして、
被告である国や企業が原告の請求権を否定してくることが多々あるそうです。
(しかしこれに対しては過去に最高裁が異議をとなえました)
向き合おうともしない加害者側の態度に、ただただ腹立たしさを感じました。
そこではまた、ドイツと日本における
強制連行や強制労働問題に対する責任論の比較から見る違いも浮き彫りに。
ドイツは
「法的責任はないが、道義的責任はある」とし、被害者のための基金を作ったのに対し、
日本は
「道義的責任はあるかもしれないが、法的責任はない」とし、結局何もしていません。
さらに対称的なのが、国のトップが示した見解です。
ドイツのヨハネス・ラウ大統領(当時)は1999年12月17日の演説で、
ナチスによる犯罪の犠牲者に対して真摯な謝罪を行いました。
以下、抜粋して載せます。
「私たちは皆知っています。ナチスの犯罪の犠牲者に対して金銭では本当には償い得ないことを。私たちは皆知っています。数百万人の女性や男性たちに加えられた苦難は、回復され得ないことを。なされた不法に対し、清算することも意味を持ちません。
奴隷労働、強制労働は、単に、正当な賃金が払われなかったことだけを意味するのではありません。それは、迫害であり、権利の剥奪であり、人間の尊厳のおぞましい軽視でした。しばしば、労働により人を殺すことも、意図的になされました。…
…私は知っています。多くの方たちにとっては、金銭は、まった補償にならないことを。その方たちは、苦難が苦難として承認され、自らが被った不法を不法と名付けられることを望んでいます。
私は、今日、ドイツ人の支配下で、奴隷労働、強制労働をしなければならなかったすべての方々に、ドイツ国民の名前で許しを乞います。あなた方の苦難を私たちは決して忘れません」
これは、時間がいくら経過したとしても過去の罪に対する道義的・歴史的・政治的責任は消えないということ、
そして、金銭の給付はあくまでも関係修復の象徴としてのみ意味があることだということを示しています。
一方、日本の村山富一首相(当時)は1995年8月15日、終戦50年を記念した談話でこうのべました。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」
…なんだか「当たらず触らず」というか、あいまいな感じです。
台湾元「慰安婦」訴訟の場で、
原告の鄭陳桃さんはこう発言したそうです。
「私はお金が欲しくて裁判をしているんではないんです。
…日本に、『おばあちゃん、ひどいことをして、悪かったね。赦してね』と謝ってもらえばいいんです」
この言葉の中に、いろんな問題の本質が凝縮されていると思います。(里)