チュソク
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明日22日は旧のお盆(朝鮮語で추석:チュソク、秋夕)で、ご自宅でチェサ(祭祀)を行ったり、墓参りに行かれる方もいらっしゃるのではなかろうか。チェサで家族や親戚が集まる機会は昔に比べると大分減った感はあるが、私の周りにはしっかりチェサがある。
「イオ」でチェサの特集をした際、中年の女性読者から投稿があり、「チェサを美化しないでほしい」と意見を寄せられたことがある。関西在住のその方の周りにはチェサの後、その疲れから1日寝込むという方が数人いるとのことだった。ハガキが食い込むほど力強い字で書かれた文章には怒りが満ちており、その投書を読みながら私は、チヂムをひらすら焼き続け、客や親戚の食事をエンドレスに作り続ける祖母の姿が重なり悲しくなったことをよく覚えている。
チェサと言えば女性の労働に負ってきた部分は大きい。最近は、お金を出せばチェサセットを宅配してくれるサービスもできたけど、やっぱり女の人の働きの上に成り立ってきた文化と言っても過言ではないだろう。そして、誰かの犠牲の上に成り立つムリはあまり長く続かないとも思っている。
もちろん、チェサにはこのような負の遺産もあるけれど、チェサの度に思うのは、人間は忘れる動物で、こういう「場」がないとお世話になった人やその思い出がどこか彼方に行ってしまうのではないか、ということだ。
数年前、在日朝鮮人のアイデンティティについて連載を書いた日本人記者から「今後、在日社会で根強く残って文化はチェサだと思う」という感想を聞いたことがある。知識ではなく、生活の現場に根付いていく私たちの文化って何だろう…とも考える。
いろいろな思いはあるし、明日は朝からチェサですが、私はチェサのパンチャン(おかず)が大好きで、それを取り囲む団欒も好きだ。そして、その輪を囲む子どもたちのはしゃぎぶりを見ると、チェサって悪いことばかりじゃないし、皆の生活スタイルに合った形に「着地」さえすれば、1世の記憶を辿る貴重な場になると思っている。(瑛)