写真は死んでいくのか、それとも?
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先日の朝日新聞に興味深い記事が載っていた。タイトルは、「写真は死んでいくのか」。「GLOBE」という同紙の企画ページの特集で、写真という表現形態の未来について考えたものだ。デジタル技術の急速な発展によって、「写真」は単なる「画像」になりつつある。写真はかつてのような輝きを取り戻せるのか―。このようなテーマの下、内外で活躍する写真家11人がそれぞれ自らの写真観や写真の可能性などについて論じている。
この特集では、かつて精密な光学機器だったカメラが家電に変わり、プロとアマの違いは見分けにくくなっていること、写真を発表する主な舞台だった新聞、雑誌、写真集などの紙媒体の発行部数低下による写真の影響力低下とともに、デジタル技術の進歩とインターネットの普及という時代の波によって、写真そのものが変わりつつあるという点が強調されていた。
デジカメは技術面で行き着くところまできた感がある。カメラ本体のみならず、パソコンのソフトによるデジタル編集・加工技術の発展も著しい。カメラメーカー側はこのような編集、加工技術の革新にカメラ進化の糸口を見出しつつあるという。記事の中でその代表例として挙げられていたのが、ハイダイナミックレンジ(HDR)合成と呼ばれる技術。カメラが捉えられる明暗差には限界があり、明るい空を捉えようとすると手前の人物が暗くなり、人物をはっきりと写そうとすると逆に空が真っ白になる。しかし、HDR合成を使うと、空と人物それぞれの対象に露出を合わせた写真を別々に撮影して、カメラ内部で自動的に1枚に合成できる。
これは、存在しないはずの写真を「作っている」ことにならないか。どこまでが写真で、どこからが作られた画像なのか、その線引きはますますあいまいになりつつある。
このような時代にプロのカメラマンとしての存在意義はどこにあるのか―。特集に登場したカメラマンの多くは決して悲観的ではない。「写真はこれまで以上に力強いものになる」「人のありようを写す写真は永久に残る」「写真に親しむ層が増えれば、プロとアマの差は先鋭化する」といった言葉に、「写真の力」を信じる彼らの思いが表れていた。
上に記事の内容を書き連ねたのは、雑誌編集に携わる記者としていろいろと考えさせられたからだ。私は「プロのカメラマン」ではないが、取材現場では当然写真を撮る。雑誌の性格上、文章より写真に重きが置かれる場合も往々にしてある。他人が撮ったものを取捨選択するのも仕事だ。カメラに関してはデジタル世代まっしぐらで、仕事でフィルムカメラを使った経験は多くない。写真に関して半人前以下の人間がそれを論じるおこがましさは十分に承知しているが、それを仕事にしている以上、何をどのように撮るのか、写真を撮るという表現行為の意味は何かということは常に考える必要があると思っている。
写真つながりでもう一つ。ジェイムズ・ナクトウェイというカメラマンについて。
「ロバート・キャパの魂を受け継ぐ男」と言われ、優れた報道カメラマンに与えられる数々の賞を受賞してきた米国出身のカメラマン。世界を股にかけて戦争や内紛、貧困など、社会が抱える矛盾をテーマに写真を撮り続けている。
私がナクトウェイを知ったのは、2003年に日本で公開されたドキュメンタリー映画「戦場のフォトグラファー」を通じて。公開当時、劇場に観に行って、「こんな人がいるのか!」と衝撃を受けた記憶がある。このナクトウェイ、寡黙でおよそ「戦場カメラマン」に似つかわしくない風貌なのだ。たたずまいは哲学者か修行僧のよう。それでいて危険な現場でも一切動じずに人々に深く感銘を与える写真を撮るからすごい。
もちろんドキュメンタリーとしても面白い。この作品のすごいところは、「戦場カメラマンはいったい現場で何を考え、どんな気持ちで行動しているのか」という疑問に答えるため、ナクトウェイのスチールカメラの上に超小型ビデオカメラ取り付け、彼の視点に迫っていること。
私が凡百の言葉を書き連ねて説明するより、映像を見てください。興味がある人はTSUT○YAにGO!(相)