住み慣れた土地を遠く離れて
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つい先日、福島第1原発20キロ圏内から避難し福島県外で生活している1組の同胞夫婦に会って話を聞くことができた。震災、原発問題の悲劇を最も端的な形で体現しているのが県外避難者。その人たちを取材せずに、被災同胞の今を文章にすることはできないと思ったからだ。
福島県浪江町で焼肉店を営む李益正さん(70歳)夫婦は現在、千葉県・成田で避難生活を送っている。震災、原発事故直後の大混乱の中、成田に住む妹家族から連絡をもらい、車で10数時間をかけてこの地にたどり着いた。しばらく妹家族の家に身を寄せ、現在は被災者向けに提供されたUR都市機構の賃貸住宅で暮らす。光熱費は自己負担だが、家賃は向こう6ヵ月間は無料。一部生活支援物品も提供された。
春の暖かい日差しに包まれた昼下がり。2時間ほど家にお邪魔して、原発事故から避難までの一部始終、避難後の生活ぶり、今後のことなどについて話をうかがった。
20キロ圏内の「避難指示区域」が立入禁止の「警戒区域」になる数日前、意を決して一時帰宅したという李さん夫婦。限られた時間の中、自宅兼店舗の整理もそこそこに、貴重品や当面の生活必需品を運び出した。
「用事を済ませて家に鍵をかけた瞬間、いろんな思いがこみ上げてきた。両親の墓にも行きたかったが、結局行けなかった・・・」
李さんはそう言ったきり、言葉を詰まらせ、涙ぐんだ。「福島の同胞や分会の人たちに会いたい。店を開けて、常連のお客さんの顔が見たい」。
住み慣れた土地、生の基盤からある日突然引き離され、今や戻ることもままならない。妹家族が近くにいるとはいえ、見知らぬ土地での生活は不安と苦労が絶えない。収入源が途絶えたので、当面の職探しも急務だが、地方都市に住む高齢夫婦にとって簡単なことではないという。仮の生活がいつまで続くのか。仮の生活が本当の生活になってしまうかもしれない。そんな考えも脳裏をよぎるという。
「必ず戻れると信じている。戻って、店を再開させるんだ」。そう話す李さん。
避難後、福島の総聯活動家や同胞たちからの励ましの電話に元気づけられているという。福島県本部からは定期的に「朝鮮新報」が届く。福島をはじめ被災地同胞社会のニュースは紙面を通じて知る。「イオ」も読んでくれているという。
先日、福島朝鮮初中級学校で教鞭をとる息子を通じて、祖国からの慰問金を受け取った。「日赤や地方自治体、東電、どこよりも祖国からの慰問金が早かった。本当にありがたい」。
李さんは浜通り支部原町分会の副分会長を務めている。「模範分会」の称号を2度もらった歴史ある分会だ。震災と原発事故の影響で、分会の同胞たちは離散した。しかし、集まることをあきらめてはいない。大変な状況だけど、3~4ヵ月に1回でもどこかで集まろうと考えている。
「頑張ってください」などと軽々しくは言えなかった。別れ間際、「お話を聞かせていただいてありがとうございました。お体に気をつけて」といったありきたりなあいさつしかできない自分の語彙の貧困さを恨んだ。
今回の東日本大震災と原発事故は多くの人々の人生を変えた。自分ではいかんともしがたい要因によって生がほんろうされる苦しみはいかばかりだろうか。普通であればくじけそうになる状況で、李さんを支えているのは、自分の家、自分の店、自分の生活を取り戻すんだという強い気持ち、そして同胞コミュニティからの支援や励ましといった、人との繋がりだと感じた。
さまざまな境遇にある被災同胞たちをどのように支え、助け、寄り添っていくのか。みなが知恵を、お金を、力を出し合い、中長期的な視野をもって取り組んでいくべきだと思う。相互扶助やネットワークの力といった、同胞社会が誇ってきたリソースはまさにこういう事態にこそ必要とされ真価が発揮されるのではないだろうか。
オチが毎度同じでごめんなさい。(相)